散文ブログ『ちりぶみ』
数名による持ち回り創作ブログ。4のつく日(4・14・24)更新。
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鈍色の昼   (2007/03/14)
 俺の通った小学校は海岸から百メートルほどの位置に建っていた。生徒数は千人。四階建ての校舎が三棟、軒を列ねていた。グラウンドの隅には浜から吹き寄せられた砂が積もっていて、そこに昼顔が咲いたり、カニが遊びに来たりした。
 屋上からはキラキラと光る海が見渡せた。夏になると白い入道雲の下をちっちゃなタンカーがのろのろ進む様子が見て取れた。昼休みにその景色をボーッと眺めるのが好きだった。
 陸の方角には車の通りが少ない一筋の道路と、東西を繋ぐ幹線道路の高架橋、こどもたちが道草を食う空き地ばかり広がっていた。都会的な雑踏とは無縁の場所だった。
 小学校は俺が卒業してからすぐに廃校になった。俺が十二歳の時だから、もう二十年も前の事になる。市が計画した区画整備によって工業地帯になるとか、担任の教師から説明された。その通り、今ではかつての空き地に工場が乱立している。煙突や銀色の巨大な土管がのたくっている。
 懐かしい少年時代の土地に、俺は帰ってきた。何か重大な忘れ物、もしくは失われた記憶、あるいは秘められた罪悪感かも知れない何かを探しに。それが何かは解らない。解らないまま、不意に襲ってきた不安と焦燥に焚き付けられ、こうして帰ってきた。
 電車を降り、駅から十五分ほど歩くと、かつて俺が住んでいた団地が見えてくる。昔とそれほど変わりはない。当時から古びていた白壁は今も立派に黄ばんでいる。壁の表皮は崩れていないので、さすがに何度か塗り替えをしたんだろう。
 この色あせた汚い壁と、壁を這う血合い色の雨樋。どす黒く錆びた鉄輪。それは貧しかった少年時代を思い出させるのに充分だった。
 俺は虫を払い退けるように顔を背け、団地の脇を通過した。ここから先は懐かしい通学路となる。
 通学路の道すがらには一軒の洋館があった。よく覚えている。
 煉瓦造りの壁一面にツタがからんでいる。ツタの合間には整然とした白い窓。ツタは主人の無精からのさばっているのではなく、デコレーションとしてその家を飾っているのだ。
 ゴシック調の鉄柵から窺える庭は眩しいほど青い緑色。芝生の所々に赤や黄の草花が植わっていて、点々と彩りを加えている。花壇にもこれまた見事なチューリップ・ヒヤシンスなどが咲き誇っている。小さいながらも澄んだ水をたたえた池のほとりには真っ白な裸婦像が鎮座し、真っ白いテーブルと二脚のイスが設置されている。初夏の夜更けにワインでも口にしながら満天の星空を眺めるのだろう。
 一年中手入れの行き届いたこの庭は、美しさを保ちながら季節ごとの風景を刻々と描き出している。夏には元気なヒマワリが太陽に向かって背筋を伸ばす。秋には広葉樹が寂びたオレンジ色を秋風にたなびかせる。しかし何と言っても春のうららかな日差しに映えるグリーンは筆舌に尽くしがたい物があった。それは、「満足」という語の具現化したものだった。
 ここの奥さんはよほど熱心な花好きと見える。ご主人には安定した収入があったのだろう。幸せな家庭、それ無くして美しい庭は存在し得ない。
 しかし今、その庭は、もはや美しくなかった。洋館の煉瓦は変わらずに古雅の趣を漂わせていたが、それ以外の事象は全くもって荒廃していた。ツタは窓枠にまでこびりつき、もはやガラスも見えにくい。何年も開けられていないのだろう。庭の芝生はすさみ、雑草が増長している。花はことごとく枯れていて姿が見えない。池の水は涸れ、傍らの裸婦像は黄色く変色している。同じく黄色く汚れたテーブルの上にはコーラの空き缶が潰れている。かつて繁栄を極めていただけに、現状はあまりにも惨すぎる。庭の手入れをしていた奥さんが病気になったのだろうか。ご主人が事業に失敗したのだろうか。どうあれ、今のこの庭に「家庭円満」はない。
 俺は時の流れの残酷さにゾッとしながら洋館の前を通過した。
 そこからしばらく行くと、友人のエトが住んでいた土地に差し掛かった。ここには畑があった。根菜を植えていたかと記憶する。商売としてではなく、おばあちゃんが趣味で園芸をしていたらしい。かたわらには犬小屋があり、「ロッキー」という名の犬が寝そべっていた。
 その畑で、俺と友人のエトはよく遊んだ。キャッチボールをしている所を見付かると、おばあちゃんに怒られた。当然である。傍若無人に畑を踏み荒らす悪ガキども、迷惑に違いない。ハハ、今となっては良い思い出だ。
 現在、そこにはもう、キャッチボールをして遊ぶ俺たちの姿は無い。昔慣れ親しんだ風景は、風に吹かれる砂のように、消えてしまった。
 エトはもう、この世にはいない。畑を守るおばあちゃんも亡くなった。ロッキーはエトよりも先に死んでしまっている。そして、「子ども」の俺も、もういない。
 二度と帰って来ないあの景色。
 夕焼けの光線が空気をオレンジ色に染める放課後。畑のわきで、黙々と汗を流しながら、しかし楽しそうに笑いながら遊ぶ俺とエト。その様子を監視(と、言った方が良いだろう)するおばあちゃん。我関せずとばかりに寝そべるロッキー。あの幸せな景色は、もう二度と、見られない。
 畑は潰されて、今はアパートが建っていた。
 時間は未来へと放射して行き、過去へと逆行はしてくれない。その事実を突きつけられる時、人はみな、たまらなくさびしくなるのだ。
 そこからまた五分ほど南下すると、油臭い潮の香りが漂ってきた。民家は消え、街路樹が屏風のように立ち並ぶ産業道路が視界を開いた。
 それはとても淋しい絵画だった。
 画板の上半分ほどは切り取られ、ごく薄い水色で配色が成されている。その下には道幅の広い産業道路がアスファルト色の台形を象っており、台形の周りには無機質な工場がひとつ・ふたつと陣取っている。中央右の隅に球形の巨大なガスタンクがひっそりと据えられ、鶯色のサッカーボールに見えた。
 この絵画の主役は道路だ。しかし、この道路もなんて切ないんだろう。断続的な白い車線は徐々に小さくなっていき、しまいには見えなくなっている。動く物は無い。ただ幾何学的な直線を構成しているだけだ。どんな画家にだって、こんな絶望的な抽象画は描けまい。
 その道路の先にポツリと見える小石のようなもの。それが俺の母校だ。
 全く音の無い世界だった。海の音がかすかに耳をくすぐるし、工場の騒音も多少はうるさかったに違いない。しかし、それらの音はもはや音ではなかった。寂寥感を煽る“静”に他ならない。生き生きとした動きのある事を伝えないばかりか、時間が止まっているような錯覚さえ引き起こす。耳栓をしたってこんなに静かな世界を得る事は出来ない。
 俺は独り、学校に向かって歩いた。まさに独りだった。世界でたった一人ぽっちの気分。人の気配や動物の息吹を感じる事は出来なかった。どこを見渡しても、無駄の無い抽象画だった。無駄の無い、つまり機械的な、生命の宿らない空間。
 校門にたどり着いた。ボロボロに朽ちた鉄製の門扉。これは昔、柔らかいクリーム色だった。清潔でおいしそうな色だった。それが今では腐敗し,むごたらしく死肉を垂れ下げ、生徒の登校を拒んでいる。門柱に鎖で堅く縛られて。板切れに塗りつけられた「立入禁止」の文字を鮮血のように光らせて。
 門柱にはいまだに表札が掲げられていた。青銅製の縦長の看板には「宇内市立久瀬南小学校」と刻字されている。この表札だけは二十年前と変わらず古めかしい。
「この表札、なつかしいなぁ。本当に、母校に帰ってきたんだな…」
 心地良い感傷的気分が俺の心の奥底をほのかに温めた。しかし、そういう感興がすぐに消し飛ぶ事はわかっていた。俺は眉を八の字に歪ませ、上方を見上げた。
 そこに在る学校の姿はまるで、石造りの冷たい墓標のようだった。俺はちょっと辺りを窺ってから校門をよじ登った。そうして敷地内へ無事に着地した。
 そこは、外界から完全に隔離された空間だった。誰かが校門から覗きでもしない限り、俺が侵入している事はわからないだろう。小さな雑草が群れている土の上を、タバコに火を点けて歩き始める。
 小学生の頃は自分が喫煙者になるとは夢にも思わなかった。大人になるには気の遠くなるほど時間がかかると思っていた。しかし時の流れは残酷で、かつ早い。俺も今では三十を超えた。俺が十二歳の時に習っていた担任の教師は二十七歳だった。当時の彼よりも俺は年を食った事になる。
 その担任は名前を有野と言った。若々しい男性教員で、休み時間には生徒と一緒にドッヂボールをしてくれる優しい人だった。
 俺は何一つ有野先生にかなわなかった。大人が子どもより優れているのは当然の事だが、十二歳の俺の目には有野先生の姿が英雄のように映った。永久に追い越せない天才として尊敬していた。
 今の俺は当時の有野先生よりも大人になった。しかし果たして俺は、彼ほど大人になっただろうか? 疑わしい。実感が無い。今でもこう感じる。有野先生の前では俺は永久に十二歳で、従って彼を永久に超える事が出来ない──。
 タバコの煙を蒸気のように吹き上げ、校舎に沿って前庭を歩いた。花壇には干からびた砂土が沈黙し、石畳の隙間からはよく育った雑草が生え、校舎の窓ガラスは割られている。何もかもが荒廃している。
 不意に強い孤独感が俺を襲う。
「有野先生! ハリー! エト! 鶴くん! 佳奈ちゃん! みんなどこへ行っちゃったんだよ!」
 クラスメートや先生の不在。自分を置いてみんな遠足に出かけてしまったような、忘れ去られてしまったようなそんな悲しみ。俺は両腕で自分の身体をきつく抱き締めて縮こまった。
 しばらく俺は立ちすくんだ。動けなかった。吸い終えたタバコを踏みにじって向こうを見ると、外壁の外側に巨大な倉庫が並んでいるのが見えた。運送会社か何かの領地なのだろう。丸い屋根・心もとないハシゴ・倉庫番号を記したと思われる無機質な連番数字。見覚えの無い風景だ。
 延々と空き地の広がる二十年前とは別世界のようだ。ここだけが、この学校だけが、時代の流れから取り残されている。当時の空気を密封して固まったままだ。
 確かに荒廃はしている。しかし、倉庫が割拠し工場がどんどん乱立する外と比べれば、この学校の変化は余りにも乏しい。廃校。死。生に乏しい工業地帯の中でも、俺が立っている場所は一際静かに相違なかった。
 穏やかな静? いや、そんな平和的な物ではない。ある種の凄みを心に撃ち込んでくる、恐怖の対象にも似た静。
 俺は再び歩き出し、校舎の角を折れて校庭に向かった。
 給食室の脇を通る。破れたガラス窓の中を覗き込むと、赤く錆び付いた寸胴がだらしなく転がっている。かつてステンレス加工のされていた調理台も傷だらけで白く濁り、全く光を反射していない。かつてこの場所では生徒のために料理が作られていたけれど、今ではそんな面影はどこにも見当たらない。不潔を通り越して不毛だ。ここではゴキブリも飢え死にしてしまう。生命の営みを司る飲食物は、ここでは二度と生成されない。
 棄てられた調理器具が、俺をたまらなく嫌な気分にさせた。その場に放棄せず、しっかり処分してもらいたかった。誰にも持ち去られる事無く見捨てられた調理器具は、慌ただしく廃校が決定した証明でもある。この学校は、学校ごと捨てられたのだ。正式な葬送をされる事無く…。
 赤レンガで囲まれた地面があった。理科の授業で使用された自家農園である。なつかしい。ここでプチトマトを植えたりサツマイモを掘ったりした。今は痩せこけ、まるで墓場みたいな様相を呈している。
 傍らにはボロボロの百葉箱。海風によって風化し、白ペンキを根こそぎ剥落させている。辛うじてその原型を保ってはいるものの、子供たちが慣れ親しんでいた時の面影は一片も無い。小さなお社みたいに古びていて、中から稲荷が化けて出てきそうだ。俺たちの記憶の土地が時間によって腐食されている事を示す絶好の標本だった。
 俺は校庭に出た。
 二十年の歳月をかけて海浜から少しずつ吹き寄せられたのだろう、白砂がグラウンド全体に積もっている。非常にまぶしい。見渡す限りの荒野だ。風が形成した、雅な趣の無い石庭。
 ここでよく、放課後にサッカーをした。道具さえあれば野球もした。十分間の休み時間には急いで教室を飛び出し、女子も交えて鬼ごっこやドッヂボールをし、始業のベルが鳴ると同時に一目散に教室へ戻った。なつかしい。
 目を閉じると、運動会の時の光景がまぶたに浮かんできた──
 体育館そばにテントが張られ、石灰でトラックのレーンが引かれている。ポールには校旗が掲揚され、スピーカーを軸として万国旗が頭上に張り巡らされた。紅白別れ、すのこに座る俺たち。俺たちの背後で頼もしい声援を送る父母たち。オリンピックスタジアムさながらの、立派な競技場だった。
 目を開いてみると、校庭は案外狭い。俺がリレーのアンカーを務めたトラックも、実際にはちっぽけな楕円形だったようだ。自分自身の成長を感じるとともに、なんだか切ない気持ちにもなった。なんて狭い世界で、得々としていた事だろう。俺は自分が校内随一のランナーだと思っていた。実際そうだった。学年で三本の指に入るほど足の速い生徒だった。
 運動会大取りの、全学年入り乱れてのリレー競走。そこで俺は紅組のアンカーの一人として出場し、白組の走者をゴール寸前で抜き、一位になったんだ。
 俺の活躍で紅組は優勝した。クラスのみんなが、白組として敵対したハリーでさえ、誉めたたえてくれた。下級生もみな、俺の俊足に憧れのまなざしを注いでいた。有野先生は俺を抱きかかえて振り回した。閉会式で校長先生から優勝トロフィーを渡される役に当たった。佳奈ちゃんが笑顔で俺を見ていた。
 この日、俺は学校のヒーローになった。
 輝かしい栄光の思い出。しかし、今こんな自慢話をしても、誰も感心はしない。
 中学に入ると、三本の指は二十本に増えていた。中学を出る頃には屈指の走者ではなくなっていた。
「運動会、か…」
 俺は空を見上げた。抜けるような、とは表しがたい、工業地帯の青空が開けている。
 屋上に上がろうと思った。昼休みの時間、先生に見つからないよう上がった屋上に。仲間と一緒にあの場所で浴びた光、眺めた景色。まさしく宝石のような思い出だ。キラキラした、きらめき。仮にもし「永遠」という物が存在するとすれば、それは「瞬間」だと思う。一生残る、一瞬。鮮やかな色で余生を照らす強烈な閃光。そういう掛け替えのない記憶がこの学校の屋上にはある。
 ゲタ箱の据えてある通用口に来て、ガラスの破片が窓枠に残っていない扉を探し、手を切らないよう慎重にくぐる。中に入ると、ほの暗い。夏の日の森のように、鬱蒼としていながら所々から日が射し込んでいる明度。俺以外の人間は誰も訪れない秘密の場所のような、虚無。
 自分はどのゲタ箱を使っていたっけな。探してみようか。六年三組、六年三組。生徒の名前を記したシールは油性ペンで書かれていたが、ほとんどが消えかかっている。シール自体が剥がれ落ちているものさえある。いくつかうっすらと残っている文字を目を凝らして読んでみると、その中のひとつに「つる川」。鶴くんのゲタ箱だ。よく消えずに残っていたものだ。これが鶴くんのゲタ箱とすると、俺のゲタ箱はおそらくここだ。しゃがみ込んで覗いてみる。中は板で二段に仕切られている。下の段には履いてきた靴を置き、板の上には学校用の上履きを載せていた。当時も砂ボコリが堆積していたが、今はその砂の上をさらに綿ボコリが覆っている。
 ちょっと覗き込んで中を確認し終えると、早々に立ち上がった。窮屈な体勢が苦しかった。自分の靴入れはこんな低い位置だったのか。よじ登らねば届かなかったゲタ箱上部も、今では胸の高さだ。不思議な感じがする。また、悲しい気持ちがする。いつの間にか図体だけ大きくなってしまった。
 俺は靴脱ぎから一段高くなっている廊下に歩を進めた。床には土とガラス片が散乱している。靴の下にジャリジャリ割れる音を聞きながら、俺は校内を歩き始めた。上履きを履かず土足で廊下を歩くなんて、なんだか少し悪い事をしている気がする。小学生の頃の倫理観が蘇ってくる。
 校内には誰もいないと解っていながら、先生の目を忍ぶように俺は廊下を進む。前屈みでまるで泥棒だ。自分の馬鹿げた体勢につい苦笑してしまう。
 階段に来た。各段にはやはりガラスの破片が散らばっている。土汚れで黒ずんでいる。明かり取りの窓から陽光が射していてチリがチラチラ舞っているのが見える。これも懐かしい。この光の中を、当時の俺は息を止めて駆け抜けていた。本当は校舎内全体がチリで充満しているはずなのに、それには気付かずに。
 幅の狭い階段を一段抜かしで上がっていく。昔は勢いをつけなければ一段抜かしなんて出来なかったが、今ではのっしのっしと足を放り上げられる。その代わりすぐ息が切れる。ゆっくり上っているはずなのに呼吸が荒くなる。年を取ったものだ。
 やっとの思いで四階に着き、ちょっと一呼吸。四階には六年三組の教室がある。廊下は比較的きれいに見える。チリやホコリがビッシリと敷き詰められているのだろうが、遠目には見えない。窓も割れていないようだ。
 教室には後で寄る事にし、息が整った時点でまた階段を上る。この、四階から屋上に向かう階段。下校前の掃除の時間を思い出す。掃除当番で階段の担当になった時は楽しかった。同じ班の女子に階下を任せて、男子は屋上近くの踊り場で遊び回ったものだ。雑巾を投げ合ったり、手すりを滑り台にしたり。たまに先生が見回りに来た時だけ掃除しているふりをする。帰りの会が始まるまで、昼休みと何ら変わりの無い最高の時間を過ごした。違う班の男子が紛れ込んでいて、とうとう見つかった時は猛烈に怒られたが、それも今では良い思い出。
 壁にたくさんの落書きがある。「昭和六十年度卒業」「滝口くん大好き」「ずっと友だちだからな」「安松綱島松倉」などなど。そして、残っていた、俺が書いた相合い傘。
 俺は落書きの一つ一つを点検し、寂しく微笑みながら、屋上に通ずるドアのノブに手を掛けた。二十年前と同じく施錠はされていなかったが、蝶番いが錆び、格子が歪んでいるのだろう、容易には開かない。銀色の老いたドアは苦しそうに軋む。あたかも「この先へ進んではいけない」と注意する先生のように、俺の立ち入りを拒む。
 屋上に出るのはやめておこうか──ドアがあまりにも頑固なので、そう思いもした。しかし屋上からの素晴らしい眺望をあきらめるわけには行かず、俺はムキになってドアと格闘を開始した。
 無理に押したり叩いたりしてもギィギィ鳴くだけで道を譲ってくれない。そこで思い切って体当たりをしてみたら、ドアはギャッと短く甲高い悲鳴を上げ、二つある蝶番いのうち上の方にあるのが外れた。浜風に曝されていた表面は今にも腐り落ちそうな赤銅色をしていたが、新たに露出した金属部分は骨のような白銀色に光っている。校舎から剥離した蝶番いはドア本体に必死にへばりつき、サビを血のようにぱらつかせながら、無残に風に揺れている。
 さらにグイグイ押すと、ドアは断末魔の叫び声を上げながらようやく屋上を明け渡してくれた。どうにか開いたが良い気持ちはしない。行く手を阻む敵を、敵とはいえ誤って殺してしまった、そんな釈然としない心境だ。
 俺は再び太陽の下に出た。荒れ放題の屋上。コンクリートの床は一面ひび割れており、割れた隙間からは雑草が茫々と生えている。白いペンキの塗られていた柵に白い部分はほとんど残っていない。赤銅色の鉄が丸出しだ。
「二十年。だもんな」
 俺はタバコを取り出して口にくわえた。両手で覆いながらライターを二三度擦る。顔を撫でる風に目を細めながら煙を吐き出す。柵の向こう、彼方の海を一望する。工業化の影響で汚れたかも知れないが、ここから見る分にはキラキラ光っていて昔と変わらない。
 空を見上げた。太陽。その強烈な光は目を閉じても透過してくる。真っ赤に染まる視界。まぶたの薄皮を流れる血液の、赤。まぶしい。太陽だけは二十年前と同じだ。
 まさかこの屋上で喫煙する日が来るとは、な。中学では下校途中に喫煙する奴が居たけど、さすがに小学校の屋上で吸ってる奴は居なかったもんな。物凄くワルい事をしているかのような、後ろめたさ。普段よりも煙が濃く旨く感じる。
 柵に近づいてみる。校舎べりの稜線に隠れていた海はせり上がり、陸地部分が徐々に姿を現す。俺はハッとした。白い砂浜は見えなかった。無かった。在るのは唯、アルノワタダ、ジンコウブツ。人工物。人工物、人工物、地球の地肌を埋め尽くした人工物…。
 かつて不規則に海岸線を描いていた自然の造型は見る陰もない。区画整備、その計画通りの埋め立て地。陸地部分は人工的に拡張され、海だった場所に無遠慮に伸し掛かっている。波打ち際にはテトラポッドが規則正しく並べられている。カニが棲みカモメが遊びに来た土地は今や人間に開発され、人間の秩序に律せられた。
 人間の。果たして本当にそうか。俺にはこれが人間の仕事だとは信じられない。学校と海との間には球形や円筒形のタンクが無造作に置かれ、その周囲を工場や倉庫などの巨大建造物が取り巻いている。工場敷地、外壁の上に葉を繁らせる樹木は、道路からの目隠しとして差し込まれたプラスチック。人工物。人工物の一部。人の気配は少しもしない。プレハブ小屋がある。しかしあの中に人が活動しているとはとても思えないのだ。
 砂浜が失われた事には何の感慨も無い。環境問題、そんなものは知った事ではない。俺が怯えているのは孤独感。世界にたったひとりぼっちのようなこのとてつもない孤独感だ。俺の他に人は居るのだろうか。もしかしたら自分一人ではないのだろうか。そんな風にも思えてしまう。それほどまでに、生命の息吹が感じられない。潮風が運んでくる磯の香りにも重油や黒煙や腐敗の匂いが混じっている気がする。水平線に円筒型のタンクが屹立する湾。誰も歩いてない道路。静まり返った工場。ただ黙々と白い蒸気を吐き続ける煙突。
 風がある。海の表面がささがきにされているのでもわかる。鏡と輝く水上に浮かぶタンカーの船尾には糸のような物がひょろひょろと靡く。しかし、煙突の突端に結びついた白い物は揺れない。あの煙は淡の水墨で描いたような煙だ。吹かれたり流れたり散ったりしない、静かな静かな筆蹟。
 もしも。もしもあの煙が。煙突の突き刺さった工場の軒下で、百名に及ぶ隠遁者たちが擦っている墨によるのだとしたら。その墨汁で湿らせた筆を喝一閃、エイヤッと空に走らせていたとしたら。筆の遊覧した軌跡が煙突から吐き出されていたとしたら。ああ。俺はどれほど楽しい気分になっただろう。救われたろう。絶望。
 クシャクシャの紙ペラ1枚の気分となる。軽く、からっぽで、薄汚れた状態。何もかもが味気なくなる。世界が変貌していく。
 赤白赤白段だら模様の煙突は陶器製の灯台に変貌する。機能しない投光器。航路標識として頼る者は誰もいない。誰もいない。この世界の漁師は沖に出ない。この世界の海には魚がいない。あれが地獄の灯明台だったらどんなに良かっただろう。荼毘の煙で死者を招く骨造りの塔だったら。この停止した臨海地帯よりもよっぽどにぎやかだったに違いない。
 煩雑な建造物は電子部品として基盤の上に組み込まれる。トタン張りの倉庫が。鉄筋コンクリート製の工場が。薬品色のタンクが。煙突が、クレーンが、電線が、道路が。全ての無機物が無機物ですら無くなる。個々の存在を喪失し、巨大な集積回路に集約する。
 俺は目を細め、海を見た。海があったはずの空間を見た。しかし、海はもう消えていた。そこは海ではなかった。やや蒼味を帯びた粉薬が青空に触れるほど大量に敷き詰められている。さらさらと揺らぐ砂色の布。記号化した大型船舶。
 急にタバコがまずくなって、捨てた。草を燃した煙ではなくプラスチックの味がした。怖くなった。一思いに飛び降りたくなった。自分にもよくわからない。なぜこんなにも泣きそうなのだろう。身体が小刻みに震える。怖い。一人が、怖い。一人で居るのが堪らなく怖い。
 俺は屋上を立ち去った。強いて俺を一人にさせるこの残酷な世界を逃避し、自ら望んで一人となるために。
 軽く足下をふらつかせながら階段を降りる。階段の壁面に、ヘタな字で「ずっとみんなといっしょだよ」と書かれている。ずっとみんなといっしょだよ。そんな物は幻想だ。その「みんな」とやらは今や散り散りになり、誰も一緒ではない。鶴くんとは卒業以来ただの一度とて会っていない。ハリーはどうしているのか分からない。エトは死んだ。みんな、バラバラになってしまった。
 良い思い出は、時として、老いた心を苦しめる。楽しかった、あのころ。楽しかった、あのころ。ああ、楽しかった、あのころよ。──楽しかった思い出が、楽しくないこのごろをより一層楽しくない物にする。キラキラした宝物のような思い出は靄の漂う記憶の奥でまばゆく輝く。その輝き自体は掛け替えのない光明だ。しかし、その輝きの放つ明滅は暗く沈んだ現状を陰鬱に際立たせる。光は闇を濃く染める。明るい過去が、みじめな現在を残酷に照らす。ミミズを焼き殺す太陽の日差し! ああ、おまえ、過去の栄光よ。おまえは異形を見世物にするスポットライト。未来の俺をとことんまで打ちのめす侮辱の光だ!
 人はみな、何が何だかわからぬまま、人生で最も光明に満ちた季節を使い果たしてしまう。この世に登場したばかりの彼らは、その価値を知らぬままに少年期を浪費する。電球は使い初めが最も輝いている。フィラメントが消耗すれば次第に光度は減じていく。そんなこと、全く知らず、人生の光は増していくだけだと思っている。
 俺は六年三組の教室に足を踏み入れた。
 名状しがたい感覚に襲われる。なつかしい、ような。期待はずれ、なような。旧友と久しぶりに再会した際の、喜びとよそよそしさが入り混じった感覚。窓から差し込む明光が寒々しい。
 四十脚ほどの机は、あるいは整然と並び、あるいは何者かによって倒されている。床には空き缶やスナック菓子の袋が大量に落ちている。黒板には、刃物か何かで傷つけたのだろう、品のない落書きが彫り込まれている。掲示板も切り刻まれている。荒れ放題。踏みにじられた俺の、俺たちの思い出。
 窓際一番後ろが自分の席だった。隣は佳奈ちゃん、前は鶴くん。くじ引きで勝ち取った、申し分のない特等席。
 佳奈ちゃんの机、天板は砂ぼこりで粉っぽく汚れてしまっていた。俺は自分の服の袖で机の表面を拭う。そのまま自分の席に着く。
 窓に背を向けて椅子に掛ける。こんなに小さい椅子だったか。背もたれが腰の辺りに当たる。座り心地も最悪でおしりが痛い。
 低い座面に軽く戸惑いつつ、教室を一望する。
 すると、どこからか雑音が聞こえて来る。
 どこから。
 自分の頭の奥からだ。
 その音は次第に大きさを増し、やがて、活気ある喧噪である事が判る。脳内の記憶装置が当時の教室の様子を実地に映写し始める。あの時の、みんなが、焦点の定まらない像として浮かび上がる。どこに誰が座っていたのか全員を思い出すことはできないけれど、当時の授業風景が眼前にありありと浮かんでくる。
 教壇に立つ有野先生。
 黒板の方に向かって座るクラスメート。
 みんなの後頭部。黒い物が並んでいて、時々動く。この頭はハリーか。あれは誰。
 この小さな机で、背の低い子供たちが。俺たちが。俺たちは確かに、ここにいた。
 なつかしい思い出の数々が、時系列を無視して断片的に再生される。算数・国語、理科・社会。朝の会・帰りの会。学級会。そして、同じ班の仲間たち四人と机を合わせて食べた給食…。印象的な一場面一場面が、かつて身を乗り出して鑑賞した、体育館の堅い床も苦にならないほど熱心に見入ったスライド写真のように、次々に上映される。
 いつしか俺の瞳は潤み、思い出のぼんやりとした感覚ばかりでなく、実際の視界までもがぼやけ出す。
 そんな中、比較的鮮明な映像と音声を伴って俺の前に現れたのが、隣の席の、佳奈ちゃんの笑顔だ。
 授業中、小さく丸めた手紙をこっそり受け渡し合った。内容はつまらないものだったかも知れないが、その後しばらく俺の一番の宝物となった紙片。書かれた文言を丸暗記してしまったほど何度も見返したものだ。だが、今はもう、何が書かれていたか、思い出せない。手紙自体もどこかに無くしてしまった。おそらく一人暮らしをするための引っ越しの時に、他のこまごましたプリントと一緒に捨ててしまったのだろう。
 人はなぜ、本当に大切な物を簡単に手放してしまうのか。未来から押し寄せる間断なき些事にばかり気を取られ、手を引いて連れて行かなければならない大事な昔をたやすく置き去りにしてしまうのか。少年時代の事象は、ガラス細工のように美しく、そして壊れやすい。ガラクタ扱いしていた思い出が実は宝石だったという受け入れがたい事実には、いつだってそれを失ってから初めて気が付く。
「これ以上考えるのはよそう」
 俺はそう声に出し、強く目をつぶってかぶりを振った。輝かしい過去の栄光は現在を打ちのめす。まぶしかった過去が、くすんだ現在を、白日の下に晒す。嬉しい思い出が煌めくとき、暗闇に沈む醜い恥部が露わになる。この淋しい考えはますます高じていく。
 ハッと気が付くと、すっかりつまらない大人になってしまった俺に愛想を尽かしたのか、半透明の級友たちは煙のように空気に溶けて消えてしまう。佳奈ちゃんの残像も、俺を哀しそうに一瞥して消える。
 去って行く彼らに「行かないでくれ」と言えなかった。こちらから追うことも出来なかった。自分さえ望めば追って行けたのに。
 離れたくなかったはずなのに、俺はただ立ち尽くした。俺は二十年後のこの世界に取り残された。再び、寂寞としたどうしようもない孤独感。誰もいない教室で俺は独り俯く。
厳しい西日が廊下側の壁を突き刺すまで、俺は俯いて泣いた。
 席を立つ。黒板に指でさよならとなぞり、教室の外に出ようとする。
 ふと戸口で立ち止まり、教室を振り返る。そして呟く。
「さよなら」
 俺は六年三組に背を向けた。逃げるように階段を降り、通用口を出て、もう学校の方は振り向かず、校門をよじ登る。さようなら、久瀬南小学校。
 結局、無意識が俺に探せと命じた何かは見つからず、過去は取り戻せないということを再確認するだけの母校訪問となってしまった。
 肩を落としてうなだれながら、行きとは異なるルートで駅へ戻り始める。
 生物の気配の無い工業地帯。死それすらも連想させないほどに生気の無い工業地帯。穏やかな午後。晴れ渡った空が逆に寂寥感を煽る。人類が滅亡したあとの世界にたった一人で立ち尽くしているような悲しみ。
 俺は歩きながら唸る。ああ見回す限りの廃墟廃墟廃墟。効率性のみを重視し、不確かな人力を排して稼動する廃墟群。巨大建造物の冷酷無慈悲な存在感は弱った俺の心を容赦なく圧迫する。
 ふらふらとした足取りで抽象画の中をたゆたうと、高速道路の高架橋が頭上に接近してきた。くぐるのが躊躇されるコンクリート製の冷ややかな門。
 やがて俺の身体は俺の意志とは無関係の不可抗力によって橋桁の下に運搬される。日陰であり、暗い。いやな気持ちになる。
 道路脇の不吉な空間にすぐ気が付いた。錆び付いた工事現場用フェンス。目隠しとして掛けられた古びたビニールシートは、まるで遺体をくるむ白布のようだった。隙間から遊具が見えた。
「まだこの公園、残っていたか…」
 今や閉鎖され、立入禁止区画と化した高架橋下のスペース。二十年前の当時もめったに人が来なかった。鉄棒とブランコとすべり台、そして砂場。陽が当たらない以外は標準的な児童公園だった。
 エアガンで空き缶を撃ったり、爆竹をぬいぐるみに詰めて火をつけたり、ネコを首まで砂場に埋めて石をぶつけたり──大人が見ていないのを良い事に、俺たちはここで色々と悪い遊びに興じていた。
 俺たちは──俺たちは!
 瞳孔がひらいた。ここに、ある。直感した。ここに、俺の深層意識が探し求めている何かが、ある。あるはずだ。
 そう、あれは小学校六年の二学期だった。あの土曜日もまた、俺を含めて六人の悪ガキどもが、ブランコからクツを飛ばしたり危険な飛び降りをしたり、無政府的な放課後を過ごしていた。その中に、エトもいた。歯医者の帰途、公園にちょっと立ち寄ったエトが。
 それは、単なる思いつきだったのかも知れない。
「中学の先輩から聞いたんだけどさ。ここの公園の砂場って──」
 誰にも言うなよと釘を刺してから、周りに部外者はいないのに、エトは声をひそめて続けた。
「──お宝が埋まってるらしいぜ」
 掘っても掘っても砂砂砂。底無しに思える公園の砂場。その地底、奥深くに、何か宝物が埋まっている…。子どもたちには魅力的すぎる話だった。
 それは、初めはエトの単なる思いつきだったのかも知れない。子どもらしい空想から製造されたホラ話だったのかも知れない。しかし子どもたちには魅力的すぎる話だったのだ。話は次第に膨らみ始めた。
「その話なら俺も聞いたことがあるよ」
「なんか、俺も聞いたことある気がする」
「確か、公園ができた時に埋められたんだよな」
「あっ。そのことか。それってここの公園のことだったのか」
 小学生特有の民話創生。知らないことを、さも知っているかのように振る舞い、持てる知識のひけらかし合い──その実際は知ったかぶりのウソっぱち。相手の空想を自己の空想でさらに塗り固めていき、自分たちがでっちあげたホラ話を真実の伝承と思い込んでいく。
「ああ。一兆億円くらいの宝物が極秘で埋蔵されたってやつでしょ?」
 徐々に上塗りされていった空想は、途方もない高みにまで達していく。ここでもし、ひょっこり第三者が現れて彼らの話を聞いたら、あまりのバカバカしさに吹き出したことだろう。だが、少しずつ想像の膜を重ねていった子どもたちには、自分たちの妄想があまりに現実から懸け離れてしまったことに気づかない。彼らにとって、「時価一兆億円くらいのフック船長の宝物がこの公園に埋められている」ことは、もはや疑いようもない真実に昇華しており、極めて自然なことなのだった。
 俺たちは砂場を掘り始めた。サラサラとした白砂の下に隠された秘密の財宝! 掘り当てたら俺たちゃ億万長者! 六十本のキャシャな指は夢に向かって猛烈に前後し始めた。
「子どもが砂場で遊んでも見つからないよう、かなり深く埋めてあるはずだぜ」
 砂場の外に砂が掻き出されていく。砂場の周りは白く散らかされていった。
「あっ」
 さっそく誰かが何かを見つけた。みなの視線がその子の手元に集まる。
「はは」
 つまみあげたそれは子ども用のおもちゃのスコップだった。みんな笑った。しかしガッカリ感はない。砂場には何かが埋まっているという期待は確信へと成長し、みんなの表情は幸せな色彩をさらに鮮やかにしていく。六人は地面をえぐり続けた。爪の先に砂粒を詰めながら。嬉しそうに。
 しかし、明るい未来に向けて一致団結する時間は長くは続かなかった。不運なエトがあれを掘り当てた頃から、財宝探しの雰囲気はおかしくなった。それまでは順調だった。宝物を見つけるのは時間の問題だと信じ切っていた。
「あっ。何だろうこれ」
「なんだ?」
 棒状の黒い物体。
「それ、ネコのフンじゃねぇか」
「うわっホントだ」
「きったね」
「エト汚ねえ」
 みんなが嘲った。と同時に、小学生特有の残酷さによってエトは敬遠され始めた。こうなってくるとおかしなもので、みんなの心に「こいつが言い始めた『お宝』って、本当に埋まっているのか」という疑いがきざし始めた。
 あたかもその疑念を払拭するように、五十本の指と一本のスコップは運動量を増して砂を掻き分けていく。深く深くへと掘り進んでいく。やがて、白い砂はほぼ取り除けられ、黒く湿った土が現れ始めた。爪でガリガリ掻きむしっていたのでは日が暮れてしまうので、途中、ハリーが近くの建設現場からシャベルをあるだけ盗んできた。
 ──黒土もあらかた掘り出され、とうとう砂場の底のコンクリートが露出し始めてしまった。しかし宝はまだ出て来ない。みんな声には出さなかったが、エトを非難する雰囲気はさらに重くなっていった。失望感によって疲れが一気に出たのか、みんなの手の動きは急激に遅くなった。ただエトだけが黙々と土を取り除け続けた。責任を感じているようだった。願うように掘り続けていた。
「何だこれ」
 コンクリート表面に残った黒土をかったるそうに足で払っていた子が何かを見つけた。砂のなくなった砂場、その一角に、五十センチ四方ほどのフタがあった。おそらく排水のための穴だろう。おぞましい感じのする、まるで地獄に通じているような扉だった。
「おまえ開けろよ」
「そうだ。責任を取ってな」
 エトが開けさせられることになった。彼は不安そうな顔つきでフタに手をかけた。かなり重そうだったが誰も手伝わなかった。
 宝物があるのではないかという期待感と、ないのではないかという不安感で、子どもたちは固唾を飲んだ。
 フタが開く瞬間。
 意識が飛ぶ。
 何か良くないことの起きた怖ぞ気。
 思い出すのもためらわれる──いや、ためらわれるというレベルではない。防衛本能が「思い出すな!」と警告する、絶対に思い出してはいけない物が──恐ろしい物が埋められていた…。
 何が埋まっているのか、俺たちは誰にも口外をしなかった。先生にも、親にも、友だちにも。あの日あの砂場にいた子ども同士でもその話題には決して触れなかった。固く口をつぐみ、あの土曜日の記憶を意識の奥深くに葬り去った。六人があの公園で再び遊ぶことはなかった。
 何が埋まっていたのか?
 識閾下に沈められたその忌まわしい事実は、積年のあいだ厳重に封印された。結果、思い出そうとしても思い出せない煤けた記憶となっていった。ただ、一心不乱に砂を砂場に戻したことだけは覚えている。怖い。思い出すだけで気が狂いそうになるほど怖い物が最深部には埋まっている。もはや掘り起こせない、少年時代の悪夢…。
「恐ろしい物が埋められていたはずなんだ…」
 フタを開けた瞬間からブツリと途切れた記憶を求めて。
「…いったい、何が埋まっていたんだろう?」
 俺は金網をよじ登って敷地内に侵入した。陽の当たらないそこは、廃墟と化した事で一層おぞましさを強めていた。
「俺も良いおっさんになったのだから、もはやオカルトじみた恐怖には動じない」
 砂場へ歩みながらそうは思うものの、ひどい緊張状態に陥る。決して覗いてはいけない少年時代の記憶…。真っ暗な意識の底に沈澱している、自分の過去。それを暴くのが、怖い。しかし気になるのだ。自分が忘れようとした物は、いったい何だったのか。思い出してやらなければいけない気がするのだ。
 砂場には砂がなくなっていた。この公園が閉鎖されてからかなり経つ。雨に流されたか、風に吹かれたかしたのだろう。ドス黒い土があの日と同じように剥き出しになっている。
 たった一人、土を掘り始めた。ただひたすら、土を。ここには何が埋まっていたのか、あのフタを開けたらどうなったのか、記憶の糸をたぐりながら。
 土まみれになって一時間ほどするとコンクリートの底部が現れ始めた。記憶の糸は、無意識の底から苦々しい事実を徐々に引っ張り上げる。
「あの日から、エトは行方不明になった…?」
 一瞬、驚愕に顔を歪める。その顔は、断末魔の人間の顔によく似ていたかも知れない。しかしすぐに落ち着き、もう何もかも覚悟したといった表情で俺はヘラヘラと笑い始めた。
「ああ。やっと思い出した…」
 自我が崩壊してしまったかのように、白痴的な笑いで口角を吊り上げる。
「フタの中には何もなかったんだ…」
 少年時代には重く感じたフタを、軽々と持ち上げる。
「何もなかった腹いせに、俺たちは…」
 フタを投げ捨てる。力無くうなだれて、地面に膝を突く。そうして、手をダラリと垂らしたまま、生気のない目で穴の中を見つめる。
「エトを無理矢理ここに閉じこめた…」
 穴の中には、ボロ切れと、石のような白っぽい物が詰まっていた。
「俺たちが生き埋めにしたんだ…」
 エトは、こんな所に、二十年間、二十年間も、ひとりぼっちだった。
「うわあああああぁぁぁ」
 俺はただ絶叫した。






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この記事に対するコメント



・・
・・・!

穏やかに読んでいたはずなのに、
ゾッ・・・・・・ときました。

最初は文字に対してのイメージ的な恐怖があったんだけど、
(人工物とか廃墟の羅列が)

でも実際のラストの持って行きかたが、、、
子供の残酷さは誰にでも経験があるせいかしら。

本当に胃に負担がくる怖さだった。。。

いつもながら、その情景描写には脱帽です。
【2007/03/14 11:57】 URL | arty. #-

コメントありがとうございます
 孤独感と、少年時代の秘められた記憶。このテーマを二本柱として書きました。
 実は、この小説を書きはじめたのは2003年末。極めて慎重に筆を進めた結果、完成に三年強もかかってしまいました(この作品の4倍の長さの『文体練習』『トリストラムに恋をして』なんかは一ヶ月で書けたのに…)。シリアスな文章が不得意なようです。やっとこさ完成できてほっと一安心。
 ラストシーンは、「公園の砂場ってどれくらいの深さなんだろう。底ってあるのか?」という素朴な疑問から着想しました。当初は「夢の国に通じている」だとかメルヘンチックな空想をしていたのですが、掘り進めていくうちに作者も驚くような物が埋まっていてビックリ。胸がムカムカしますね。
 本作は長くて重いので読むのが億劫だったでしょうに、最後まで読み切って下さり誠にありがとうございました。次回はもっと気軽に読める物を書きたいです。
【2007/03/15 22:37】 URL | 大塚晩霜 #-


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