散文ブログ『ちりぶみ』
数名による持ち回り創作ブログ。4のつく日(4・14・24)更新。
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雨、時々ひとり   (2006/06/14)
朝、七時。 
 早朝から、ぱらぱらと降り続く雨をカサで受けながら、出勤のため、駅へ急ぐ。通りに出ると、同じようなかっこうをして、同じ方向へ歩いている人たちが多くいる。
 雨といっても、そう煩わしく感じるほどではない。激しさはないし、季節は五月。梅雨時のじめじめした雨に比べれば、むしろ気持ちがいいくらいだ。春らしくしとしと降る雨は、少し前に芽生え始めた新芽たちに、新しいエネルギーを与えているようでもある。葉にたまる雨の滴が光に反射して、緑がいっそう濃い。
(こういう雨は、嫌いじゃないな)
駅に行くには、狭い路地を通る。古そうなアパートが立ち並ぶその道は、自動車一台がやっと通れるような細さだ。
 毎日通っている道だが、ふと、僅かな違和感に気付いた。気になるそこへ視線を流したその先に、軒下に揺れる白いかたまりを見た。
『西山荘』
 見るからに古ぼけたアパート。おんぼろな表札に、消えそうな字でそう書かれていた。木材で出来たベランダ(そう呼ぶにはあまりにもちゃちな)の柵も、今にも腐れ落ちそうなほど古く、かなり長い間そこにあるのだろう、変色した白いTシャツがハンガーに頼りなげに干されている。
 都会から切り取られた、色あせた一枚の写真のようなその風景の中で、その真新しい白さは不自然なまでに輝いて見えた。
(てるてる坊主……)
 久々に見た。頼りなげに目や口がマジックで書かれたその独特な形は、紛れもないてるてる坊主だ。少し前かがみになったその姿に、幼い頃に同じように作ったそれの懐かしさを思い出した。
(こう雨が続いちゃ作りたくもなるか)
 久し振りに見かけたその小さなものに、ふわりと心が暖かくなり、覚えず口元に笑みが浮かんだ。
(小学生くらいの女の子、いや、形がいびつだし、なんとなくおおざっぱだから男の子かな)
 男は、そんなことを想像しながら、再び、駅へと歩き始める。
 浅野亮一。三十代前半の、普通のサラリーマンである。


「――ただいま」
 雨は、亮一が帰宅する時も降っていた。と言っても、ずっと降り続いていたわけではない。雨は昼間には止んでいたのだが、どういうわけか、亮一が帰る間際になって再び降り始めたのだ。まったく、タイミングが悪い。
 靴を脱ぎながら、もう一度ただいま、と声をかけたが、返事はない。雑然としているキッチンを抜け、リビングへ行く。部屋の真ん中に置いてある大きなテーブルの前に、妻と子が座っていた。
「あら、帰ってたの」
 キョトン、とした顔で振り向いた美沙子は、悪びれもなく言った。
「まあ、ね」
 半ば諦め気味に言い放ち、亮一はネクタイを緩める。そこへ、えんぴつを持ったままの娘が寄って来た。
「おとうさん、おかえり」
 亮一の娘の里奈は、先月近所の小学校にあがったばかりだ。
「ただいま、里奈」
 ぱあっと明るい笑顔で迎えてくれた娘の、この顔と、「おかえり」があれば、一日仕事を頑張ったかいがあると、亮一は思う。
「里奈、何してたんだ?」
 聞きながら、亮一は雨に濡れた背広を脱ぐ。
「今ねぇ、おかあさんと、さんすうやってたの」
「さっそく明日、計算の小テストがあるらしいの。今必死に教えてたところよ」
 こないだ入学したばっかりなのにねぇ、と呟きながら、美沙子は再びテーブルに向かった。なるほど、テーブルの上には教科書やらノートやら、文房具類が散乱している。いつもは、亮一が帰宅すると真っ先に駆け寄ってくる里奈も、今日は算数に夢中で後回しにされたらしい。
「そうか。いいなぁ、里奈は。お母さんが優しくて。こんなに体が濡れてるのに、お父さんにはタオルも持ってきてくれないんだぞ」
 娘の頭を撫でながら、妻に聞こえるように言った。
「そこにあるわよ」
 美沙子は、部屋の隅に取り付けてあるクローゼットを指差す。直球の皮肉も、美沙子には通じないらしい。
 洗いたてのバスタオルをつかみ、亮一はバスルームへと消えた。

 シャワーを浴びて、リビングへ戻ると、美沙子と里奈はまだ必死に問題を解いていた。時計を見ると、もう9時近い。里奈もそろそろ眠くなる時間だろう。
 濡れた髪を拭きながら。自分で夕飯の準備をする。準備、と言っても味噌汁に火をかけ、おかずをチンするだけなのだが。
「夕飯もだんだん侘しくなっていくなあ」
 亮一が溜息まじりに一人ごちると、ドアを開け広げたままのリビングから、美沙子の声が飛んできた。
「そういうこと言わないでよ。私だって仕事から帰ってきてすぐ夕飯作って、里奈の勉強見てるんだから。今度の休みには、もっとちゃんとしたのを作るわ」
 美沙子は専業主婦ではない。結婚しても仕事は続けたい、という彼女の希望を、亮一は快く承諾した。ただし、主婦業と両立する、という条件付きで、だ。
「ああ、悪かったよ。おいしく頂いている」
 子どもの前でのめんどうごとを避けるべく、亮一はさらりと言い、ごまかすように味噌汁をすすった。
 家庭は、うまくいっていると思う。仕事から帰れば娘が出迎えてくれるし、手抜きがちではあるものの、一応は妻の手料理も待っている。家族団らんで食卓を囲む、なんて夜はめっきり少なくなってしまったものの(もちろんそれは亮一の帰宅時間が遅いせいもあるのだが)、これでも休日には家族そろって出かけたりもしている。
 不満は、ない。
 頭の中で今の生活を反芻しながら、亮一は、黙々と目の前の料理を口に運ぶ。
「里奈、もう眠い? 終わりにして大丈夫?」
 『大丈夫?』とは、『満点取れるの?』の裏返しだ。もちろん、亮一にはすぐ分かったが、当の里奈がそこまで深く考えているはずがない。すでにえんぴつを置き、眠たそうな目をこすっている。
「だいじょうぶ」
「じゃあ終わりにしようか。明日、頑張ってね」
 ほっとしたようにそれを聞いた里奈は、早々に机の上を片付け、のろのろと寝室へと向かった。
「大丈夫かしら」
 心配そうに後ろ姿を目で追いながら、美沙子が呟く。「大丈夫だろ。睡眠不足の方がよほどかわいそうだ」
「そうだけど……」


 食後のお茶を入れ、亮一はさっきまで里奈が難しい顔をして座っていた場所にごろんと横になった。隣で、美沙子が消しゴムのかすを集め、綺麗にしている。
「そういえば」
 思い出したように、亮一が口を開いた。
「今日、てるてる坊主を見たよ」
「へぇ、最近じゃ珍しいわね」
「気付かなかった? 駅の途中の西山荘」
「あの、古めかしいアパート?」
「そう。そこの二階。作ったばっかりみたいな、真っ白なてるてる坊主だったよ」
「ふうん。気付かなかったわ。雨の日って私、下しか見ないで歩いてるから」
 湯のみを片手に、新聞のテレビ欄を眺めている。美沙子はそれほどの興味は抱かなかったようだ。今朝、亮一が感じたわずかばかりの心の温かさを共有するには、相手が悪かったらしい。それ以上の発言は避け、亮一は言われるままにテレビのリモコンを手に取った。

 それから、しばらく雨が降り続いた。
てるてる坊主は、変わらずそこにいた。晴れの日を願っているだろうに、どうやら効果はないらしい。笑っているような雨の音に負けまいと、じっと空を見つめている。
初めて、そこでてるてる坊主を見た日から、三日目。
出勤途中、亮一は、ふと、あることに気付いた。
(昨日と、顔が違う)
それは、わずかな違いだった。マジックの線でできた顔は、昨日とは明らかに表情が違っていた。
(毎日、新しいものに替えられている?)
(そういえば、いつも真っ白だ)
 それは、毎日違うてるてる坊主だった。てっきり最初に雨が降った日から、ずっと同じものが吊るされていると思っていた亮一は、その几帳面さに感心した。
(よほど、晴れてほしいのかな)
 せっせと作り、また取り替えるという作業に、亮一はほほえましさを感じずにはいられなかった。

 それから、亮一は必ずそれを確認するようになった。
 雨が降っている朝には、ゆっくりとその道の前を通る。
(また、新しいやつだ)
(今日のはちょっと不恰好だな)
(お、今日は口が赤い)
 見るたびに新しく、その表情はくるくると変わり、いろんな顔を見せてくれるその真っ白なてるてる坊主に、いつの間にか亮一は楽しみを見出していた。昨日とは違う、新しさ。一日限りの、その表情。
 満足はしているものの、変化のない自分の生活に、真新しいてるてる坊主は、新鮮だった。昨日の雨の音と、匂いを吸い込んだ、昨日までのてるてる坊主。次の日になれば、またまっさらなてるてる坊主。一日一日を素直に生きて、真摯に受け止めている。
 はっきりとした自覚はないが、亮一の心にも、変化が起き始めたようだった。

 その日、亮一は起きた時から、なんだか体がおかしかった。少し熱っぽく、喉が痛い。間違いなく風邪で、寝てれば治るだろうとは思うが、今仕事を休むわけにはいかない。会社に無理を言って、午前中だけ休みをもらい、病院に行くことにした。
いつもよりはるかにゆっくり起きて、病院へ行くため、九時くらいに家を出た。病院は、駅の向こうである。歩く道は、いつもと同じだ。
 雨は、変わらず降っている。
(今日も、あるかな)
 西山荘の前。いつもの確認。
(あれ)
 思わず、亮一は立ち止まった。
 普段より少し赤い顔をした亮一は、そこに、人影を見た。
 高く腕を上げて、必死な様子の、老婆の姿を。
(てるてる坊主を、吊るそうとしている)
 背の低い、老婆の手には、真っ白なてるてる坊主があった。
(あのひと、だったのか)
 子どもの仕業だとばかり思っていた亮一は、意外な事実に仰天した。まさか、あんな高齢の女性が、毎日新しいてるてる坊主を作っては吊るしているなんて、思いもしなかった。その老婆は、決して満足気ではなかった。むしろ、どことなく不安そうな、頼りない表情をしていた。
 多少気にとられながらも、無事にそれが吊るされるのを見届けてから、カサを持ち直した亮一は、再び歩き出した。
 老婆の、寂しそうな顔を、脳裏に浮べながら。

 翌日から、雨は止んだ。と言っても、春らしい気候は戻っては来ず、むしろ梅雨に一歩近づいたような、一日中曇っている、なんとなくすっきりしない天候になった。
 その間、例の西山荘にてるてる坊主は見えなかった。さすがに、雨が降ってなければ、吊るしはしない、ということだろうか。しかし、カラッと晴れてくれないところを見ると、てるてる坊主も効果がないものだ。
 すでに日課となってしまっていた、てるてる坊主確認ができなくなった亮一は、どことなく手持ち無沙汰な毎日に逆戻りとなった。
 しかし、それもたった三日のことだった。
 また、雨の日が続く。


(あれ)
 気付いたのは、再び雨が降って二日後のことだった。
 亮一が知る限り、今まで、一日たりとも続けて同じてるてる坊主は吊るされていなかった。それが今日は。
(確か、昨日と同じだ)
 昨日のは、赤い口で、にっこりとした表情だったから、よく覚えている。今日も朝から雨が降っていると言うのに、てるてる坊主が変わっていない。
(そろそろ、あきらめ始めたのかな)
 なんとなく残念な面持ちで、亮一は肩を落としたが、その時は、そのくらいにしか思っていなかった。
 
 ところが、てるてる坊主が替えられなかったのは、その日だけではなかった。
 翌日も、その翌日も。吊るされたてるてる坊主は、赤い口の、にっこりとした表情そのままだった。
 日が経つにつれ、そのてるてる坊主は、雨水を吸い、冷たい風にあたり、徐々に薄汚れていく。
(おかしいな)
 亮一はさすがに訝った。あれほど、連日続けて新しいものに替えられていたてるてる坊主が、急にそのままになったなんて。薄汚れていくそれを、何もしないで放置しているなんて。
(まさか)
 

 亮一の危惧は的中した。
 てるてる坊主が替えられなくなって一週間後、西山荘でひっそりとした通夜が行われた。
 誰の通夜か、なんて、言わずとも知れたことだった。
 一方的な関心だけで、特につながりのない亮一が出席することはもちろんなかったが、西山荘の前でたむろする黒い礼服を着た人たちを見ただけで、彼は全てを悟った。
 決して大規模ではない、むしろ身内だけで行われているような、閑散とした通夜だったが、それでも例のてるてる坊主はそこにあった。作りたてではなく、日が経ってすっかりボロボロになってしまってはいたが、紛れもない、てるてる坊主。
 通夜の日は、ここ最近で一番の快晴だった。


「前に、あなたが言っていた西山荘のてるてる坊主って、あのおばあさんが作ってたのね」
 その日の夜、洗い物をし終えた美沙子が、低めの声で亮一に話し掛けてきた。娘の里奈は、一人離れてテレビに夢中だ。実は亮一も、そのことを話そうと思っていただけに、美沙子の方からその話題が振られるとは、少し驚いた。
「私、今日お通夜に行った金木さんから聞いたんだけど、あのおばあさん、もう何十年も前に、旦那さんに先立たれて、数年前にも、お孫さんを亡くしてるらしいの」
「え」
美沙子の意外な言葉に、亮一は読んでいた雑誌を閉じ、身を乗り出した。
「孫までか? なんで」
「金木さんは事故だろうって言ってたけれど……、それがね」
 そこでいったん言葉を切った美沙子を急かすように、亮一は先を促す。
「それが、なに」
「二人とも、亡くなった日に、雨が降っていたらしいのよ」
――つながった。
 そうか、それでか。
 てるてる坊主を作り続けていた理由。
 雨の日が嫌いな理由。
 早く晴れて欲しいという切実な願い。
「そう、だったんだ」
 思い出す。日々新しくなる真っ白なてるてる坊主のことを。今日も替えられてるかな、今日はどんな表情。
 雨の日の、少しの楽しみ。
 毎日の、少しの変化。
 あの真っさらなてるてる坊主に託された、一つの願い。
 その願いは、決して叶ったとは言えないけれど。
 それでも。
「今日の通夜だけは、すっきり快晴、だったわけか」
「皮肉なものね。亡くなってから晴れるなんて」
 そんなものだろう、と亮一は思った。
 人の願いなんて、願っているだけで叶うものか。
 まして、てるてる坊主なんて、子どもだまし。
「里奈」
 そう思いながら、亮一は里奈を呼んだ。そろそろテレビに飽き始めていた娘は、笑顔で走り寄ってくる。
「なぁに? おとうさん」
「里奈、てるてる坊主って作ったことあるか? お父さんと一緒に作ろうか」
「てるてるぼうず? でも今日はすっごいいいお天気だったよ」
 小首をかしげながら、里奈は聞く。
「いいんだ。作ろう。美沙子、白い布とかあるかな?」
「はいはい、今持ってくるわね」
 

 翌日、浅野家のベランダに、初めててるてる坊主が吊るされた。
 その日は、初夏を思わせる、眩しいほどの快晴だった。
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