散文ブログ『ちりぶみ』
数名による持ち回り創作ブログ。4のつく日(4・14・24)更新。
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惜別鶴 【年末連日掲載祭作品!】   (2005/12/31)
 四国のとある田舎町へと向かうフェリーに乗った私は、十年振りに訪ねる故郷の姿を思い出していた。私は二十年程前に大学進学のため上京し、大学を卒業後も東京に留まりごく普通の会社に就職。そして社内恋愛の末に結婚し、今では子供二人、小さいながらも家庭を持って生活している。そんな私の元に故郷の母親から便りが届いたのは、寒さが身に堪え始めた霜月のある日のことであった。今年の年賀状以来に見る母の字で書かれたその便りには、父が倒れ、もう先が長くないということが記されていた。

 フェリーの甲板の上に立ち、海の上に一直線に引かれた船の後を眺めながら、私は父との記憶に思いを馳せていた。決して仲が良かったとは言えず、とはいえ仲が悪かったとも言えないごく普通の親子であった関係は、特別私を感傷的にはさせなかったものの、やはり人並みには父の容態を気遣わせ、そしてまた母の現在の心境も気遣わせた。

 両親に関していえば、私の目から見るととても仲の良い夫婦だったように思えた。決して都会とは呼べないような地元の田舎町で教師をしていた父は、赴任して暫くして母と出会った。母の弟が父の教え子で、弟の保護者代わりをしていた母と知り合い、結婚に至ったのだ。親の反対を押し切った末での結婚だったんだよ、と良く母が微笑みながら語りかけてくれていたことを、幼心に今でも覚えている。
 思えば私の記憶の中での母は、いつも微笑みを浮かべていた。私が大学の卒業を控え、東京に留まる事を伝えたときも、母は温かくその決断を受け入れてくれた。そして結婚すると言っていきなり彼女を連れてきた時も、現在の妻である彼女を笑顔で出迎えてくれた。長男を連れて帰省した時も、「孫は宝物っていうのは本当なんだねぇ」としみじみと言いながら、可愛がってくれた。私にとっては、とても温かく、そして全てを受け入れてくれるような、素晴らしい母親だった。
 その母とは逆に、父の印象といえば、いつも私に対して無愛想で、それでいて頑固で強情だという記憶だった。大学進学での上京に反対され、東京での就職にはそれ以上に反対された。「お前はこの町を捨てて行くのか」と怒鳴られた時には、私もつい意地になり、「こんな町にいつまでもいられない」と本気で言い返したこともあった。その頃の私にとって父は、いつまでもこの町に固執する、頑固親父という印象しか持てなかった。しかし、いざ自分が父親になり、孫を可愛がる母の姿を嬉しそうに眺める父を見ると、その当時の父の心境をようやく理解出来たような気がした。父は、母のことを気遣っていたのだ。一人息子である私が東京でずっと生活する事を、誰よりも母が悲しむことを察していたのだろう。いつでも笑顔で受け入れていた母の内心を、父は酌んでいたのだ。

 そんな父と母にも、ここ十年近く会っていない。長男が小学校に上がり、その三つほど年下の長女が幼稚園に入ってからというもの、妻が仕事を再開したこともあってなかなか帰省は叶わず、気付けばもう長男は中学生になっていて、未だ帰省した事のない長女も小学生になっていた。今更ながら、もっと頻繁に会いに帰っておけば良かったと後悔してしまう。父も母も、さぞ喜んでくれただろうに…。


 フェリーの船内アナウンスで気付き進路へ目をやると、故郷の町が近づいてきているのが見えた。遠目では、十年の歳月を感じさせることはなかったが、おそらくフェリーが近づいて街並みをきちんと把握したとしても、そこまで歳月は感じないはずだ。私が乗ってきたこのフェリーだって、ほとんど昔と変わらないのだから。それが、私の故郷の田舎町なのだ。
 私はフェリーから故郷の町へと降り立つと、荷物を抱えたまま港からバスに乗り、父が入院している病院へと向かった。途中、私の母校である学校の前を通りすぎた。学校は町に一つしかなく、私の母校は小学校と中学校を兼ねていた。もちろん私もその学校に通っていたため、父は私にとって親であるものの、先生という立場でもあった。そういった部分も影響し、私に対して厳格だったのかもしれない。父はその後もその学校の勤務を続け、数年前までは校長を務めていた。父にとってこの町は、教え子だらけといっても良かった。当然私も、この町に居る限りは、その父の息子という立場から逃れられなかった。今思えば、私がこの町を出たがっていた原因の一つは、その居心地の悪さだったのかもしれない。

 病院前でバスを降り、母の待つ父の病室へと向かっていると、途中の廊下で呼び止められた。振り返ってみると、看護婦姿をした女性が立っていた。学校で同じクラスだったこともある、同級生だった。「先生のお見舞いに来たんですね」と彼女は私に確認し、父の病室まで案内してくれた。病室のドアを開けると、室内には身体の至る所に管を通し、ベッドにまるで縛り付けられているかのような父と、その横で椅子に腰掛け父の看病をしている母の姿があった。母は私の姿を確認すると、昔と変わらぬあの微笑みで私を出迎えてくれた。しかしその微笑みは一瞬で消え、すぐにまた父に目をやっては溜め息交じりにこう言った。

「父さん、あまり起きてくれないのよ。ずっとベッドで眠るばかりで。今までの疲れが一気に出たのかねぇ…」

 私が上京してからの二十年余りをずっと父と二人で過ごしてきた母にとって、この状況はとても辛いものに違いなかった。これまで父は病気をほとんど患った事がなく、まして入院をするなど初めてだった。母の言葉からひしひしと不安感を感じさせるのも、そう考えると無理もなかった。まして父の様態は、この先快方に向かう事は無いのだから。
 私は病室に残る母と別れ、先程病室まで案内してくれた同級生の看護婦から父の様態を聞く事にした。十日ほど前に倒れた父は、この町から暫く行ったところにある市立病院に運ばれ、様態が安定した数日前になって、この病院へと移ってきたということだ。施設が充実している市立病院への入院を拒み、この町へ戻る事を望んだ父は、もしかすると自分の様態を感じ取っているかもしれず、また、母に負担を掛けさせまいとの気遣いがあったのかもしれなかった。どちらにせよ父は病院に運ばれたときにはもう手遅れで、あとはどれだけ延命させるか、どれだけ痛みを取り除けるか、というのが病院での治療の限界だった。

 私が病室に戻ってみると、部屋には見舞客が居た。父の教え子だったというその男性には、私も見覚えがあった。確か私の二つほど年下で、この町では珍しく「不良」というレッテルを貼られ、数々の問題を起こしていたはずだ。そんな彼に対して父は特別力を注ぎ、彼が高校を卒業して出稼ぎでこの町から出ていく頃には、立派に更生させたのだと母から聞いた事がある。彼は見舞い品として母にフルーツを手渡し、同時に何故か千羽鶴をいくつも渡していた。その光景を見て、この部屋の至る所に千羽鶴が掛けられていることに、私はようやく気付いた。おそらく教え子達がこうして千羽鶴を置いていくのだろう。しかしそれにしても、学生のお見舞いならまだしも、卒業して立派な大人になってまで、彼が千羽鶴を作って持ってきたことは奇妙な気がした。
 彼は母と世間話をした後にもう帰る事を告げ、そして私を「良かったらどこか喫茶店へでも行って少し話しませんか?」と誘い出した。私はその申し出を了承し、彼と共に病院の近くのお店へ入った。

「突然お誘いしてすいません。あなたとは一度お話ししてみたかったもので」と、昔の彼の印象しかない私にとっては、意外に思える程の丁寧な言葉遣いで私に話しかけてきた。

「私が昔、あなたのお父さんにお世話になった事を覚えているでしょうか。当時私は、自分が嫌で、家族が嫌で、そしてこの町が嫌でたまらずに、問題ばかり起こしていたどうしようもない奴でした。先生は、そんな私を救ってくれた恩人なんです。あの頃の私は何もかもが気に喰わず、教師に刃向かい、他の生徒とケンカをし、喫煙や万引きなどをすることでしか自分自身の存在を証明できなかったんです。そうしているうちに、気付けばこの町で厄介者扱いになっていました。誰も私に話しかけようとせず、私が堂々と煙草などを吸っても見て見ぬ振りで、ますます私は孤独になっていきました」

 彼の話を聞きながら、私は自分の記憶を思い出してきた。確かにあの頃この町では、彼の悪い噂を良く聞いていた。そして私が大学で上京する頃には、彼が何度か私の家を訪ねてきたような記憶もあった。

「そんな私と真剣に向き合ってくれたのが、先生だったんです。私が先生のクラスだったのは中学校の時だったので、先生にとって高校生になっていた私は、昔の教え子の一人でしかありませんでした。それでも先生は、私の良くない噂を聞いたからでしょうか、私の様子を見に何度も会いに来てくれるようになったんです。最初の頃はもちろん邪険に扱いました。私にとっては迷惑な存在でしかなかったからです。しかし何度も何度も私の元に足を運んでくれて、警察の世話になったときも引受人として来てくれて、喫煙やケンカに対して本気で怒ってくれて、自宅に招待してくれて夕食を振る舞ってくれて…。そうして先生の優しさに触れる事で、ようやく私は立ち直る事が出来たんです」

 彼は、運ばれてきたコーヒーを時折口にしながら、私に語り続けた。

「私が何とか高校を卒業出来たのも、先生のおかげだと思っています。そうじゃなければ、おそらく高校を中退し、今頃どこで何をやっていたことか…。私は高校卒業後にこの町を出て、大阪で働きました。懸命に働いて、そしてこの町に戻って生活しています。あんなに嫌いだったこの町が、今では好きでたまりません。実は私の子供達も、先生の下で学んだんですよ。まぁその頃には先生はクラスの担任ではなくて、教頭先生や校長先生になっていたんですけどね。だから私の家族は皆、先生を慕っているんです」

 彼は、「これを見て下さい」と言って、財布の中から大事そうに、ボロボロの折り鶴を取り出した。

「この折り鶴は、実は先生が私にくれたものなんです。先生は自分のクラスの生徒達に、良く折り鶴を配っていたんです。そしてその折り鶴の中には先生のメッセージが書かれていて、良く私たちはそのメッセージを読むために鶴を解いては、読んだ後また折って元通りにしていたものです。そしてこの折り鶴は、私が高校を卒業して出稼ぎに出るときに、先生がくれたものです。この鶴の中には、かなり細かい字で、私へのメッセージが書かれています。大阪へ行っても頑張れ、頑張っても駄目な時はいつでも戻ってこい、そう書かれた先生のメッセージは、一人大阪で働いていた私にとって心の支えでした。働くのが嫌になったとき、私は何度もこの鶴を解き先生のメッセージを読み直しては、どうにか希望を捨てずに居られたのです。そのおかげで、鶴はもうボロボロになってしまったんですけどね…」

 彼は笑いながら、大切そうにその鶴をまた財布の中へと戻した。そういえば私は、父が何故か折り紙で鶴を作っている姿を何度も目撃していた。これまでその行動の意味がわからなかったが、彼の話を聞いてようやく合点がいった。つまり父は、折り鶴に生徒達へのメッセージを込めていたのだ。その行動は、口数が少ない父のイメージにピッタリで、思わず私は微笑みを浮かべた。

「今日、私が千羽鶴を持ってきたでしょう? 実は病室の中にあった千羽鶴は、全て私が持ってきたものなんです。あれは私の同期だった卒業生達と一緒に、これまでの先生の教え子達の協力を得て作ったものなんです。みんな先生から折り鶴を貰っていましたから、先生には千羽鶴が一番似合うだろうと、私がアイディアを出したんですよ。もちろん、その千羽鶴の一つ一つには、先生に対するメッセージが込められてます。まぁあれだけの量なので、先生が一つ一つのメッセージを読む事は出来ないとは思いますけど、鶴の中にメッセージが込められている事は、先生も気付くはずですから」

 私は病室内の千羽鶴を思い出し、その意味をようやく知った。あの鶴は、これまでの父に対する、教え子達からのエールだったのだ。そう思うと、何だか父の事を誇らしく思えるようになった。父は、これほどまでに教え子達から慕われていたのだ。


 一通り話し終えた彼は、仕事の時間ということで、喫茶店を後にした。「また千羽鶴を持ってきます」と話す彼を見送り、私は病院へと戻った。病室へ入ると、母は先程の千羽鶴を壁に掛けているところだった。そして父も目を覚ましていた。
「おう、来たのか」と私に声を掛けた父は、また一つ増えた千羽鶴を嬉しそうに眺めた。そして私が椅子に腰掛け暫くした後、「どうだ、子供達は元気か?」と尋ねてきた。

「あぁ、二人とも元気にしてるよ。もう中学生と小学生だからね。手が掛からないというか、もう親離れしたというか…」

「子供は元気に育てばいい。お前も病気だけはあまりしなかったからな。母さんにあまり心配を掛けずに済んだ。まぁお前が東京に行ってからは、母さんは毎日お前の心配ばかりだったけどな」

 母は、苦笑いしながら父の話を聞いている。

「せっかく来たんだ。数日はこっちでゆっくりしていけよ。この町も久し振りだろう。久し振りとはいっても、そんなに変わっていないのが、この町の良さでもあるんだけどな」

 私は父の言葉に頷き、「ゆっくりさせて貰うよ」と答えた。考えてみれば、こうして父と会話をするのも十年振りだ。何故か父も母も電話というものをほとんど使わず、連絡手段は未だに手紙だったりするのだ。心なしか父の声に張りがないのは病気のせいなのか、それとも月日がそうさせるのか、私には判断がつかなかったが、どちらにせよ私にとっては十年の歳月を感じさせずにはいられなかった。それと同時に、先程聞いた折り鶴の話と相まって、私は父の表情の奥深くに隠された優しさを感じ取ることができた。それは、今までずっと気付く事の出来なかった、父の持つもう一つの面だったのだろう。


 その後私は数日間滞在し、正月に家族を連れて帰省する旨を伝え、東京に戻った。今年の正月には父と母に、まだ顔を見せていない長女を見せたかったし、中学生になった長男の成長ぶりも見せたかった。今更ながら少しは親孝行をしたいと、私は考えたのだ。しかしながらその私の考えは、残念ながら手遅れとなってしまった。

 父が亡くなったという知らせを母から受けたのは、年末が近づきかなり冷え込みつつあった、師走のある日のことだった。


 母から電話という、かなり珍しい連絡を受けた時点で、私は父の事を察したが、やはり母からの連絡はその予想通りのものだった。電話口の母の声は思ったより落ち着いていて、私を安堵させた。いつものように手紙だったならば、私が母を心配し居ても立っても居られなくなった事を、母は気遣ったのかもしれなかった。私はその日の内に家族4人で帰省する準備を整え、翌日の午後には実家へと戻った。

 葬式では街中から多くの弔問客を迎え、私は改めてこの町への父の貢献度を思い知った。同時に、父の息子であることへの誇りを感じた。母は皆の前では気丈に振る舞っていたものの、一人になると父の遺影の前に座り、夜遅くまで語り掛け続けていた。そんな母が、私は心配でたまらなかった。
 葬儀が一段落した頃、以前病室へ見舞いに来てくれた教え子の彼と私は話していた。彼は今回の葬儀でまとめ役を買って出てくれていて、葬儀の進行でかなり力になって貰っていた。彼とビールを飲み交わしながら、生前の父の話をしていると、彼がふとこんな言葉を漏らした。

「これで年始の楽しみがなくなりますね。みんな残念に思うと思いますよ。まぁそれと同時に、毎年正月になると先生の事を思い出すんじゃないかな」

 私には意味が飲み込めず、彼にその意図を尋ねた。すると彼は意外そうに私を見て、こう答えた。

「毎年年始に先生から貰える折り鶴のことですよ、年賀状代わりの。私は大阪に出稼ぎに行った年から、毎年貰ってますよ。今では教え子達全員に、毎年年賀状代わりに出しているとか。今年はどんなメッセージだろうと、みんな毎年楽しみにしていたみたいですよ」

 そのような父の行動は、私にとっては初耳だった。

「ご存じなかったんですか? おかしいですね、確か息子には生まれた年から毎年折り鶴を贈っているって、先生は嬉しそうに話していたはずなんですが…。そのアイディアを元にして、私たちのような教え子達にも年賀状代わりに贈るようになったという話でしたけどねぇ」

 不思議そうな顔をしている彼を横目に、私は記憶を思い起こしていた。言われてみれば確かに、毎年お年玉と共に折り鶴を貰っていた事を、幼心に覚えている。しかしいつの間にか折り鶴を貰わなくなったような気がした。あの折り鶴には、メッセージが込められていたのだろうか。私はそれに気付かぬまま、これまで来てしまっていたのだ。


 葬儀の片付けが全て終わり、私の妻や子供達が就寝し、私と母だけになった時、私は母にその事を尋ねた。

「父さんの折り鶴のことかい? それなら私が全部とってあるよ。どれ、一つ持ってこようかねぇ」

 そう言って、母は自室から小さな箱を持ってきた。その箱の中には様々な色と大きさの、沢山の折り鶴が収められていた。

「お前が記憶にあるのはおそらく子供の頃貰ったものだけだと思うけど、実は父さんは毎年毎年お前の折り鶴を作っては、渡せずにいたんだよ。ほら、父さんはああいう性格だから、お前が大きくなってしまって、鶴を渡すのが恥ずかしくなったんじゃないかねぇ。何せ父さんは今年だって、お前の鶴を作っていたんだから」

 沢山の鶴を箱から出しながら、母は私に語り掛けた。まるで今までずっと隠してきた事を、ようやく全て話せるような、そんな口振りだった。それぞれの鶴の翼の裏には、私の名前と西暦が書かれていた。西暦を見てみると、母の言葉通り今年のもの混じっていた。

「それにね、お前の鶴だけじゃないんだよ。ほら、これを見なさい」

 そう言いながら母が私に手渡した鶴には、私の妻、そして二人の子供の名前がそれぞれ記されていた。父は、私の家族全員に対して、毎年毎年鶴を作ってくれていたのだ。

「父さんはね、何だかんだ言ってお前の事が大切で仕方がなかったんだよ。だからこそお前が東京に行くって言ったときにあれだけ反対したんだ。けれどあの人も強情だから素直になれなくてね。こうして鶴を作る事で、少しでも気を紛らわせていたんじゃないかねぇ。まぁ鶴の事はあたしも口止めされていたから、こうして今頃になってようやくお前が知る事になったんだけれどね」

 母は、父が懸命に鶴を作っている姿を思い出したのか、鶴を手にして微笑んでいる。母の話によれば、父は毎年何百羽もの鶴を折り、その一つ一つにメッセージを書いては、教え子達に贈っていたという。そして教え子達から返事の鶴が届くたびに、中のメッセージを読んでは折って元に戻し、部屋に大切に保管していたらしい。そしてその鶴達は今でも、父の書斎に飾られているということだった。


 私は、母が眠りに就いた後、私と私の家族宛の鶴が入った箱を持ったまま、父の書斎へと入っていった。そしてその部屋で、四十羽近くにもなったこれまでの私への折り鶴を、一つ一つ解いては、読み続けていった。そこには、今まで気付く事の無かった父の愛情があった。一つ一つに、私への素直なメッセージが込められていた。私が上京を決意した後の鶴には、「お前なら東京でも必ずやっていける。挫けるな」というメッセージが書かれていて、また私が結婚をした後の鶴には、「お前にはもったいない奥さんだ。大切にするんだぞ」と書かれていた。私はそれを、涙を流しながら読み続けた。妻の鶴にも、子供達の鶴にも、一つ一つ丁寧にメッセージが書かれていた。そしていつしか私の周りは、父の手書きのメッセージが記された折り紙で一杯になっていた。

 涙で潤んだ目で、父の書斎の中を眺めていた私は、ある一つの鶴に気付いた。その鶴は、父が亡くなった後に母が病室から運んできた荷物に混じっていた。赤色の折り紙で折られたその鶴は、他の折り鶴と違って折り方が雑で、他のものとは違った印象を私に与えた。もしやと思い鶴を手に取った私は、翼の裏に書かれた西暦が来年になっていることを確認し、急いでその鶴を解いた。
 その折り鶴は、父が自分の死期が近い事を悟り、遺書のような形で残した私へのメッセージだった。病床の中、言う事を聞かない身体で必死になって作ったであろうその鶴には、仕事も家族も両方大事にしろだとか、奥さんを悲しませるなとか、子供はのびのび育てろとか、そういった教訓めいたメッセージが書かれていて、そしてその最後には一言こう書かれていた。「母さんを宜しく頼む」、と…。
 私はその鶴を手で握りしめ、父の優しさを心から噛みしめていた。そうして、その夜は更けていった。


 葬式などの処理を全て終え、私は家族と共にフェリーに乗り、故郷を後にしていた。父が作っていた家族宛の折り鶴は、私が全て本人達に渡して読ませた。妻も長男も、そして実際に一度も父に会った事のなかった長女も、父に対して何かしら感じてくれれば、という私の意図だった。その私の意図を理解した上でなのか、妻がみんなで折り鶴を作ろう、と提案してくれた。もちろんその折り鶴には、それぞれ父へのメッセージを込めて。そして皆で作った四つの折り鶴を、「天国まで届きますように」と、フェリーの甲板から空に向かって放り投げた。空へと投げられた四つの鶴たちは、まるで本物の鳥のように、風に乗って空へと舞っていった。

 生まれて初めて乗ったフェリーを気に入った娘は、「ねぇパパ、次はいつこのお船に乗るの?」と私に尋ねてきた。「そうだね、次はおばあちゃんをおうちまで迎えに行くときだから、またすぐに乗れると思うよ」と私は答えながら、フェリーが後にした故郷の方を眺めては、父と母のことを想った。
「母さんの事は大丈夫だから任せて」と書かれた私の鶴は、他の三羽と共に大空を舞い、そして海へ一直線に引かれた船の水しぶきの中へ、ゆっくりと沈みながら消えていった。





 前回落としてしまった作品をどうにか書き上げました。が、前回同様結構な量になってしまって、かつ〆切りを半日オーバーしてしまってます…。
 まぁ、沖縄人ってことで「うちな~たいむ」でご了承頂ければ、と勝手ながら…。

 今回の作品、いかがでしたでしょうか。かなり長いので読むのが疲れるとは思いますが、気に入って頂ければ下のバナーをクリックして貰えればと思います。もちろんコメントも募集中です。
 それでは、来年もどうぞ宜しく~。来年の抱負は「締め切り厳守」です!




仁礼小一郎(花押)
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テーマ:自作小説 - ジャンル:小説・文学




この記事に対するコメント

感動~
とっても胸が苦しくなりました。
おかげで、実家に帰ってもっと親と一緒の時間を過ごしたいと思いました☆
ありがとうございます、
とっても好きな作品です。
【2006/04/03 13:18】 URL | arty #-


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