散文ブログ『ちりぶみ』
数名による持ち回り創作ブログ。4のつく日(4・14・24)更新。
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フューチャー・エレクトリカル・フィナーレ 【後篇】   (2007/08/13)
「ようこそお越し下さいました、お久しぶりです!」

年季の入ったドアを開けると、彼らにとって懐かしい顔がそこにはあったのだろう、途端にノスタルジックな雰囲気が漂い始めた。
男性二人に女性二人のその団体客は、早速カウンターの真ん中の席を横一列に陣取り、マスターとの会話を楽しんでいる。
「いやぁ、良い店だねぇ、ほんとに」
女性の一人が感嘆の声を上げた。
「だからオレが言ったっしょ? 細部までこだわってるって。前から誘ってるのに、全然来ようとしないんだから」
男性の一人は、手馴れた手つきで店のマッチを手に取り、早速紫煙を燻らせている。
「とりあえず、一杯目はビールでいいですか?」というマスターの問いに、OKサインを出したのもその男性だ。
「あれ、そういえばまだ来てないみたいだね」と店内を見渡しながら言ったのは、もう一人の男性。
「ちょっと遅れて来るみたいですよ。仕事が忙しいみたいで」と控えめに言ったのがもう一人の女性。
男女2組ずつのその団体客は、どうやらカップルなどでは無いようだ。会話を聞く限り友人同士という印象を受ける。それはマスターとの関係もそうなのだろう。

「さぁ、用意はできましたよ。まだ全員は揃ってませんが、一先ず乾杯しましょうか」
マスターがビールグラスを5つ持って、4人の前に並べた。そしてグラスの1つは自分で持ち、早くも乾杯をしようと準備している。
じゃあ、という合図と共に、4人の客とマスターは、「久しぶりの再会に!」と言葉を添えてグラスを高々と掲げ、乾杯を行うと、早速それぞれの話に花を咲かせ始めている。

一組の男女は、カウンターで酒を片手に語らい合っている。
「いやぁ、こうして美味しいビールを皆で飲めるなんて、良い時代になったもんだね」
「そうね、なかなか忙しくてお互い会えないですもんね。こうした場所で飲めるなんて、嬉しいわ」
「良く言うよ~。前誘っても断ったくせに」
「あら、ごめんなさい。その時ちょうど忙しかったのよ」
「ほんとかぁ~?」
「まぁまぁ。こうして今日飲めたんだから、良いじゃない、良いじゃない」

もう一組の男女は、ラックの展示物に夢中のようだ。
「おっ、これはもしや! な、懐かしいっ!」
「何ですか、このペットボトル?」
「ほら、中を見てみなよ」
「うわぁ、複雑なミニチュアですねぇ。よくできてる」
「このペットボトルは、地球を表しているわけよ。ほらここに大地があって、水もある」
「なるほど、コロニーみたいなものですね」
「そうそう、着想はそこから来てたんだけどね」

マスターは、店に掛かってきた電話に対応している。
「えぇ、そこまで辿り着いてもらえれば、あとはずっと進んでいただくと“Prose”っていうネオンが見えて来ますので。特に操作なども必要ないんで大丈夫だとは思いますけど、もしまた分からなくなったら連絡下さい。皆さんもうお揃いなんで、お越しを待ってますよ」

しばらくすると、もう一人の男性が店内に姿を見せた。遅いと周りに野次られながら、カウンターの端へと腰掛ける。
「悪い悪い、だいぶ迷ってしまって。何せ初めてだからさ」と謝るその男性の前にもビールが届くと、二度目の乾杯の声が店内に響き渡った。

「さぁ、全員が揃ったところで改めてお礼を。本日は当店にお越しいただき、ありがとうございます。少しの時間ですが、せっかく久しぶりに皆で会えたわけなので、心行くまでお楽しみ下さいませ」
マスターが、5人に増えた団体客にスピーチをすると、拍手が沸き上がる。「よっ、マスター!」と声を上げたのは、またもや紫煙を燻らせている男性だ。マスターはその声に笑顔を浮かべながら、スピーチを続ける。

「この店をオープンして早くも3年になります。ご存知の通りこのご時勢ですから、誰でも簡単にこうしてお店を開けるようになりましたが、なかなかどうして。店を続けるのはそれなりに労力が掛かるわけです。そう、まるで一昔前のホームページ運営みたいなものですね。でもまぁこうして皆さんの再会の場として機能したのであれば、今まで続けてきた甲斐があるというものです」
マスターは満足げな表情を浮かべながら、自分の言葉に頷いている。
「20周年の記念日をこの場で過ごせるというこの喜びに応えるために、今日は様々な仕掛けをご用意しました。既に手にとっている方もいると思いますが、店内を見渡していただいて、是非ご覧になってお楽しみ下さい」
マスターは急に小声になって囁く。
「ほら、こうして我々以外の客の顔ぶれも、ちょっとしたサプライズですよ」

マスターのスピーチが終わり、5人の客は思い思いに店内を歩き回り始めた。展示物を手にとって感慨深げに眺めたり、他の客の会話に聞き耳を立てたり、大胆にも客同士の会話の輪の中に入り、楽しそうに談笑したり。そんな楽しげな5人を満足そうに眺めているのは、本日の仕掛け人であるマスターだった。

マスターはバーの片隅にある書籍コーナーから、エメラルドグリーンの書籍を手に取ると、パラパラとめくった。書籍の中には70作品以上の散文が掲載されていて、出典元の作品の所々にはマークがあった。
在りし日の記憶が、マスターの頭の中に甦って来る。その記憶を頼りに、マスターはこの日の催しを企画し、実行したのだった。

十数年前のあの日、実現することを夢見ながら書いたあの小説の光景が、目の前に繰り広げられている。2年もの間、6人のメンバーで持ち寄った作品の登場人物たちが、小説を飛び出し動き回る。そんな中に、作者であるメンバー全員が集まる・・・。そうした夢物語は、十数年もの間に進歩し続けたネット環境が実現してくれた。人間がバーチャルな世界にまで実生活を持ち込めるようになった現在、その世界の中では、現実の時間の束縛は受けるものの、実世界と同じような生活を営むことができるのだ。
3年前、その男は今日のこの日を夢見て世界の片隅にバーを開いた。そして今日、ついにこの日を迎えた。店内には作品内の登場人物を客として存在させ、所縁の物を展示させた。その仕掛けを、集まってくれたメンバー達は懐かしそうに楽しんでくれている。

男は、書籍の終わり頃に掲載されている作品『フューチャー・エレクトリカル・フィナーレ』に目を落とし、一気に読み終えると、書籍を閉じて元の場所に戻し、改めて店内を見渡した。気の知れた仲間、皆で創り出した人々に品々。それらが、今、この店内で交わり合っている。それは、男にとって至福の時であった。正に2年に及ぶ活動の集大成だと感じた。

活動の終焉を迎えていた時、男は実生活での変化によって活動の限界を感じていた。そしてそれはおそらく、参加メンバーの全員が少なからず感じていたに違いない。しかしそれでも、それぞれ別々の生活を営みながら活動を続けた2年間は、男にとって、参加メンバーにとって、有意義な期間だったと、今でも感じているに違いない。だからこそ今、この瞬間も、こんなにも満ち足りた表情を浮かべているのだろう。
男は、マスターと呼ばれるその男は、コップに残った生ビールを一気に飲み干すと、もう一度皆に向かって乾杯を促した。

「皆さん、宴もたけなわではございますが、明日は金曜日ということでなかなか長居は難しいと思います。なので最後にもう一度皆で乾杯をして、一先ずお開きということで!」
マスターは皆にドリンクを配ると、声高々に声を上げた。
「20周年おめでとうございます! これからも皆お元気で! 乾杯!!」

6つのグラスが空中でコツンと乾いた音を立てて店内に響き渡ると、同時に店内の時計が日付が変わったことを知らせ、20周年記念日である2025年9月4日は過ぎ去った。
しかし、バー“Prose”の店内からは、まだまだ盛り上がりは冷めることなく、その宴が永遠に続くかの如く、いつまでも笑い声が聞こえてくるのだった。

  (終)
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フューチャー・エレクトリカル・フィナーレ 【前篇】   (2007/08/06)
大通りから一本奥へ入った横路地を少し歩くと、懐かしい色に輝くネオンがあった。そのネオンに誘われ、まるで光に吸い寄せられる蛾のように、ふらふらと、しかしあたかもそこに向かうのが当然かのように、男はネオンの下の階段をゆっくりと下りていった。今朝から降っていた雨でまだ湿っている、歴史を感じさせるような石造りの階段を下りきり、黒光りのする扉に手をかけ、男はゆっくりとその扉を開く。

ギイィィィッ・・・

まるで何年もの間開かれたことのなかったかのようなドアの軋む音と共に、そのバーの入り口の扉は開いた。開いた視界には、最適な明るさに保たれた店内が見える。左側には奥にかけてカウンターの座席が並び、右側の短い通路にはテーブル席がいくつか見える。客もそれなりには居るようだ。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか? どうぞお好きな場所へお座り下さい・・・」
カウンター越しから、マスターとおぼしき男性が声をかけてきた。少々禿げ上がった髪と短く整えている口髭には白髪が交じっていて、その男性が歩んできた時の長さを感じさせる。口調は穏やかで、客商売にありがちな押しつけがましさもなく、スマートだ。おそらく客商売の経験が豊富なのだろう、言葉遣いにも手慣れた感覚があった。

男はそのマスターの言葉に従い、カウンターのちょうど真ん中の席へと腰を下ろした。この場所からは店内至るところを眺めることができるようだ。男はマスターに「とりあえず」という言葉と共に生ビールを頼み、注文の品が届くまでの間に店内を見回している。

シックな色調で統一された店内は、オシャレすぎず、かといって安すぎず、ほどよい雰囲気を醸し出していた。こういった雰囲気は人を落ち着かせる。男は、仕事の疲れを少しでも癒そうとこのバーへ立ち寄ったのだが、その面ではチョイスは間違ってはいないだろう。男の品定めをするような目にも、暫くすると安堵の色が浮かんだ。

「お待たせいたしました、生ビールでございます」
マスターからビールを受け取った男は、まずは一口ビールを口に運ぶ。細かな泡で口の周りを少々白く色づけながら、男は引き続き店内を見回しているようだ。カウンター奥の鏡越しに見える若い男女のカップル、年齢に若干差があるような男女の二人組、会社帰りのサラリーマン二人組は肩を叩き合いながら話が盛り上がっていて、一番奥のテーブルに座る母娘はお互いの傘を見せ合いながら笑顔で話をしている。
男の横のカウンター席では、何故か金髪の女性が、バーの雰囲気にそぐわないようなカレーを懸命に口に運んでおり、奥のカウンターに腰掛ける外国人のカップルは、喧嘩でもしているのかそっぽを向く女性に男性が懸命に取り入っている。

よく分からない客層だ、と思いながらも男は生ビールを飲み干し、二杯目のドリンクを注文しようとドリンクメニューに目を落とした。メニューにはカクテルはもちろんのこと、バーボンやスコッチ、焼酎、日本酒に泡盛まで揃っていた。何にするか決めあぐねていた男に、マスターが話しかける。

「何にするかお悩みですか?」
男は、何かお薦めのカクテルがないか、尋ねる。
「そうですね……。カクテルといっても様々ですからね。甘みが欲しいのならブラックルシアン、酸味が欲しいのならブラッディメアリーといったところでしょうか。お客様の気分に合わせてお作りすることもできますよ」
男がブラッディメアリーを注文すると、マスターは微笑みながらカウンターの奥でグラスに氷を注ぎ込み、そこにウォッカとトマトジュースを流し入れながら、軽くステアした。
「お客さん、ブラッディメアリーに関するこんな噂話があるんです。ちょっぴりヒンヤリとする、この暑い季節にピッタリの話なんですが、興味はございますか?」
興味を覚えた男は、マスターに話の続きを促した。マスターはグラスにカットしたレモンを添えると、男の前に差し出しながら話を始めた。
「ご覧の通り、ブラッディメアリーは真っ赤なカクテルです。カクテルの名前も血からの連想で名付けられたんですが、この噂話はバーが舞台になっています。そう、お客さんが座っている、こうしたバーのカウンターがね」
マスターはニヤリと笑うと、カウンター上にディスプレイされた指輪を手に取り、話を続けた。マスターの話は血を吸う指輪の話で、もちろん本当の話とは思えないような内容だったが、男にとっては酒を楽しむ肴として、少なくともカウンターで一人暇を持て余すこともなく、心地良い時間を男に提供してくれた。

「もし良ければ、店内を歩きながら眺めてみて下さい。この指輪の他にも、一癖ある品々をディスプレイしてますので、楽しんでいただけるかもしれませんよ」
そうマスターに提案され、男は店内を再度見渡してみた。すると、先ほどは客にばかり気を取られ気づかなかったものの、壁にはディスプレイラックが備え付けられていて、そこには確かに何やら奇妙なものが、今更ながら存在感を示している。

男は興味を覚えて席を立ち、一番身近なラックにちょこんと乗っている、ペットボトル型の置物を手に取ってみた。「ペットボトル型」ではなくペットボトルそのものだったことに気づいた男は、その中身を凝視した。ペットボトルの中には、精巧なミニチュアで作られた樹木や池、そして驚いたことに生き物のミニチュアまで入っている。そうしたミニチュア達がうまく絡まり合い、空間内であたかも生き物たちが生活しているような、そんな気にさせる。よく見かける帆船入りのウイスキーボトルよりも新鮮で、暫し男はペットボトルに見入ってしまった。

ペットボトルを元の場所に置き、次の場所へと移動する。折り紙で作られた大小様々、色とりどりの折り鶴がある。一般的な「バー」という場所には不釣り合いな展示品だ。その横には小さなブックスタンドと共に、いくつかの書籍が並んでいた。男は『100人の小隊を間違いなく点呼する方法』というHowTo本の横にあった、エメラルドグリーン色の装丁がされた質素な本を手に取り、中身が小説だったことを確認すると、また元の場所に戻した。さすがにバーで小説を読む気にはなれなかったのだろう。

男は、その後も店内のディスプレイを見て回ったが、そうしているとカウンターからは聞き取れなかったお客同士の会話も聞こえてきて、いつしか男の関心はディスプレイよりもその会話に傾いていった。ディスプレイを手に取り眺めているふりをしながら、その回りの会話に耳を傾ける。

年の差がある男女は、男性が懸命に女性に対してうんちくの披露をしているようだった。カメラの操作法がどうだとか、臨時特急は絶好の被写体だとか、そうした話をしているが、知識の無い男にはその半分も話が理解できなかった。
店の奥の母娘は、二人してそれぞれの夫の話をしている。娘が結婚するとこうした会話が繰り広げられているのかと思うと、男は我が身に置き換えて考えてみたのか、少し苦笑いを浮かべた。母と娘は二人とも胸に白いバラのブローチをしていたのが、仲の良い親子だということを男に印象づけた。
若い男女のカップルは、テーブルの上にリクエストカードを置き、二人でどうしようかと相談したあげく、どうやら曲が決まったらしい。その曲名を書いてマスターに渡すと、これまで店内に流れていたJAZZに変わって、これまで何度も耳にしてきた独特の声と滑らかなギターの音色が辺りを満たした。曲名まではわからないが、おそらくB'zの曲だろう。その曲を二人は聞きながら、満足そうに見つめ合っている。

男が続いてサラリーマンの二人組の会話に耳を傾けようと席に近づくと、いきなりそのサラリーマンの一人に絡まれた。

「なぁ、腐ったミカンとワキガって、どっちが臭いと思う?」

何とも突拍子のない質問を投げかけられた男は、よく分からぬまま聞き返した。
「いやね、こいつは小学校の頃からの親友なんだけど、譲らなくてね。お互いその臭いを体験しちゃったもんだから、思い入れもあるわけさ。でもよく考えたら普通の人はどっちも嗅いだことないもんな。悪いね、急に話しかけて」
サラリーマン達はそう言うとお互い顔を見合わせて、また大声で笑った。男はその隙に何事もなかったかのように、しかしながら慌てて自分の席へと戻った。本当になんだか分からない店だ、と男は一人呟いた。


二杯目のブラッディメアリーを頼むと、男はマスターに灰皿が無いか尋ねた。マスターは失礼しましたと詫びながら、灰皿と、その店のマッチを持ってきてくれた。
年季を感じさせるようなレトロな作りのマッチの表面には、このバーの名前なのだろう、“Prose”と印字されていた。そのマッチで煙草に火を点し、フゥーッと一息天井に向かって吐いた。

横に座っていた金髪の女性は、カレーを既に食べ終え、マスターにリクエストカードを渡していた。ちょうど若いカップルがリクエストした曲が終わり、マスターは店内にあるメッセージボードに書かれていた『I'm in love?』という字を消すと、新たな曲名をそこに記した。流れてきた曲は、モーツァルトの『アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク』だった。食後のモーツァルトとは、それこそバーが不釣り合いだ、と男は思った。

男が煙草をちょうど吸い終えた時、カウンターの一番奥に座っていた男女が慌ただしく席を立った。先ほどからの喧嘩がいよいよ本格化したのだろうと、男は推理したが、案の定男性は明らかに不機嫌な女性に対して謝りながら引き留めている。
「待てって、誤解だって! ほら、せっかく素敵なバーに居るんだから、もっと楽しもうじゃないか! だってほら、僕らが愛し合わないと世界に平和が訪れないんだから!」
「そんなの知らないわ! だって私は幸せじゃないんだから、平和なんか来るもんですか。もう帰る!」
「ちょっと待てって、リンダ!」
慌てて男性はカードで精算を済ませると、ドアから出て行った女性を追いかけて出て行った。


「いつの世も、男女の仲は大変ですねぇ」と、マスターが苦笑いしながら二人が居た席のグラスを片付けている。全くだ、と男は同意した。そしてそういえば、とマスターにリクエストカードのことを尋ねた。マスターの説明では、この店では客からのリクエスト曲をBGMで流してくれるサービスを行っているらしい。リクエスト曲があれば是非、というマスターの言葉に甘え、男は曲名をカードに書いてマスターに渡した。
その時、男の携帯電話が鳴った。男は周りに申し訳なさそうに席を立つと、化粧室前でその電話に出た。
「はいもしもし? あぁ、なんだ君か。どうしたんだ? うん? 先生はまだ家に帰る前だけど? 何、今から?」
男は時計に目をやると、しょうがないなぁといった感じで後頭部を掻きながら会話を続けた。
「わかった、今から行ってやるからもう暫く待ってろ。わかったな?」

そう言って男は電話を切り、マスターに「お会計! カードで。」と頼んだ。
カード読み取り機をマスターから手渡された男は、「カードをお入れいただき、暗証番号を入力して下さい」という音声アナウンスに従い、カードと暗証番号を入れ、精算を済ませた。「ご利用ありがとうございました」という機械のスピーカーから流れる生音声を聞きながら、男はマスターに詫びた。
「曲をリクエストしたのに、急に帰ることになってしまってすいません」
「いえいえ、大丈夫ですよ。この曲は私も好きな曲ですからね。失礼ですが先生をされていらっしゃるのですか?」
「いえ、先生といってもしがない講師ですよ、職業訓練校の。ほら、これですよ」と言って、男は言葉を繰り返している機械のスピーカーを指さした。
「あぁ、なるほど。その職業でしたか。では次回ご来店の際にはそのお話でも、お聴かせ下さい。またお待ちしていますので……」

マスターの申し出を快諾した男は、グラスの残りを一気に飲み干すと、来たときと同じように店の扉を開き、店を出て階段を登った。
途中、数人の団体とすれ違うと、階段を登り切った時に、階段の下から「ようこそお越し下さいました、お久しぶりです!」というマスターの明るい声と、男が最後にリクエストしたKISSの『Hard Luck Japanese Man』のメロディーが、風に乗って男の耳にまで届いたかと思うと、「ギイィィィッ・・・」という扉の閉まる音と共に、聞こえなくなった。
そうして男が自らの生徒が待つ公園へと足早に向かうと、バー“Prose”のネオンは男の背にネオンの懐かしげな明かりを照らし、そして次第にそのネオンの明かりも、まるで幻だったかの様に周りの街灯の明るさにかき消されていった。

(続く)


舞台『VOICER』   (2007/06/06)
※世界設定については、「ボイサー養成マニュアル」をご参照下さい


舞台設定

・教室。夜間学校と職業訓練校を足して二で割ったようなイメージ。
・生徒は数人。学ぶのは「ボイサー:Voicer」と呼ばれる職業につくための基礎知識。
・ボイサーとは、団塊世代の高齢化退職に伴う有り余った退職者の労働力と、増え続けるニート世代への働き口として、無理矢理需要を生み出した在宅ワーク。これまで機械の自動音声で補っていた様々なアナウンス(駅の構内、留守番電話やNTTアナウンスなどの電話応答、カーナビなど各種機械に内蔵されている自動音声)を全て人間の声で行う事で、家にいながらにして仕事をした気になれる仕組み。時代の流れに逆行していることこの上無いが、斬新なアイディアとして浸透し、ボイサー志望者は増え、各地に民間の養成学校が開校された。そんな時代のお話し。

人物設定

マブチ・・・元ヤン。オレオレ詐欺の下っ端に嫌気が差していたところを、親に無理矢理入学させられた。斜に構え口は悪いが、実は電話の仕事が好きで、電話を持って喋ると人が変わる。

サクラ・・・根は明るいが、些細な事からいじめに遭い、登校拒否で家に引き籠もるようになる。既にボイサーとして再就職していた父の薦めもあり入学。少し抜けているが憎めない。

サクラ父・・・サクラの父で、昔は工場で働いていたが、定年後にボイサーとして再就職。元気に働いている。家に引き籠もるサクラにボイサーを勧め、元の元気で明るい行き方を取り戻して欲しいと願っている。いわゆる親バカ。ボイサー養成学校の第一期卒業生でもある。

ハラダ・・・頑固な老人。隠居生活に嫌気が差し、新聞の広告を見て入学。妻に先立たれ一人寂しい老後生活を送っていた。

コマノ・・・アニメおたくの暗い少女。本当は声優を夢見ているが、臆病で引っ込み思案な性格で足を踏み出せないでいる。現在はニート中。ボイサーをステップにして自信を持ち、声優へと挑戦したいと密かに思っている。

ウエハラ・・・母親の看病をしながら仕事をするため、大学を中退してボイサーの道へ。インテリ気質なので周りを少々小馬鹿にするような言動がたまに傷だが、一番真面目に学ぼうという意識が高いのも彼女。

イトウ・・・養成学校講師。アナウンサーの道を諦め講師の道に。一応講師の熱意はある。





   生徒達(マブチ、サクラ、ハラダ、コマノ、ウエハラ)、椅子に座っている。
SEチャイム音。
イトウ登場。ドアを開け教室の中へ。教台の前に立つ。

ウ「起立~! 気を付け、礼、着席~!」

   生徒達、皆で立ち上がり一礼。

イ「はい、それでは本日も授業をはじめます。まずは出欠を・・・。(各自名前を呼ばれたら返事)ウエハラさん、コマノさん、サクラさん、ハラダさん、マブチさん、リサ・スティッグマイヤーさん・・・は来てないっと」

   イトウ、室内を見渡しながら帳簿に書き込む。

イ「よし。では授業を開始します。前回は確か『ボイサー』の誕生と意義についてでしたね。まずはその復習をしてみましょうか。では、ウエハラさん、ボイサーの説明をしてみてください」
ウ「はい。ボイサーは、これまで機械の自動音声で行っていた留守番電話やNTTアナウンスなどの電話応答や、駅などでのアナウンス、それにカーナビなどの音声アナウンスを全て生身の人間が代行するという、全く新しい概念から生まれた在宅ワークです」
イ「はい、ありがとう。さすがですねウエハラさん、完璧ですよ。そのボイサーという在宅ワーク、その仕事をこなすために、皆さんはこのボイサー養成学校で学んでいるわけですね。では、そのボイサーの意義について、サクラさんお願いします」
サ「は、はい! えっえ~~っと・・・。(ノートを懸命にめくりながら探す)あれ、忘れちゃいました~。てへっ(頭を自分で軽くこづく)」
マ「あん? なんだその『てへっ』ってのは! なめんじゃねぇよ!」
イ「まぁまぁ、マブチくん。サクラさんもまだ若いんだから、もっと優しくしてあげないと。サクラさん、前回やったところですから、ちゃんと復習してくださいね」
サ「はーい」
マ「ちっ」
イ「ではコマノさん、サクラさんの代わりに答えてもらえますか?」
コ「え・・・私ですか? 私はいいです・・・」
マ「いいってなんだよ、子供じゃねえんだぞ?」
コ「すいません・・・」
コマノ心の声 「負けるなワタシ! あんなヤンキーなんかに負けてるようじゃ、声優になんてなれないわ!」
イ「うーん、では誰か答えられる人は・・・?」
ハ「ワシが答えよう。ボイサーはな、ワシのように定年を迎えながらも働き口を探している老人達のためにあるのじゃ。家に居ながらにして働ける仕事じゃからのぅ。といっても、おまいさん達のような若者にも需要があるようじゃがな」
イ「はい、ハラダさんありがとうございます。そう、ボイサーは増え続ける定年後の年長者の方々や、訳あって社会に出られない方々、あとは増え続けるニートの更生といった意義もあるんですね。ですから、皆さんが目指しているボイサーは、日本政府が生み出した、斬新かつ有意義なお仕事と言えるわけです」
ウ「先生、私も家で寝たきりの母を看病しながら働ける、ということでボイサーへの道を選びました。非常に素晴らしい職業だと思います」
イ「ウエハラさん、その気持ちを忘れなければ、きっと素晴らしいボイサーになれると思いますよ、頑張って下さいね」
ウ「はい!」
マ「ふんっ馬鹿らしい・・・」

イ「はい、それではみなさん、前回の復習が終わったところで、早速次の勉強に移りましょう。今日から、皆さんお待ちかねの実践練習です」

   教室内、ざわつく

イ「今日は特別にゲスト講師をお招きしています。早速呼んでみましょうか。お父さん!」

   サクラ父、登場。

父「は~い、どんも皆さん! いつもうちのサクラがお世話になっとります~!」
サ「お父ちゃん!」
父「サクラ、ちゃんと勉強しとったか~? 真面目にせんといかんぞ」
イ「はい、というわけで、今日はサクラさんのお父さんに来ていただきました。お父さんは実はこの学校の一期生で、既にボイサーとして活躍しているプロボイサーです。今日は色々と皆さんに教えていただけるそうなので、楽しみにしましょう」
父「どんぞ、宜しくおんねがいします!」
一同「おねがいします」
イ「では、ウォーミングアップも兼ねて、早口言葉をしましょうか。私から順に言っていくので、順に回していきましょう。皆さんはそれぞれの言葉を復唱して下さいね。ではいきます」

   早口言葉合戦スタート

イ「生麦生米生卵、はい」
一同「生麦生米生卵」
ウ「赤巻紙青巻紙黄巻紙、はい」
一同「赤巻紙青巻紙黄巻紙」
サ「隣の客はよく柿食う客だがその隣の客はよく牡蠣にアたる客だ、はい」
一同「隣の客はよく柿食う客だがその隣の客はよく牡蠣にアたる客だ」
イ「おっ、新しい」
コ「カエルぴょん吉三ぴょん吉、合わせてぴょん吉六ぴょん吉、はい」
一同「カエルぴょん吉三ぴょん吉、合わせてぴょん吉六ぴょん吉」
イ「ど根性、って感じですね」
マ「天上天下唯我独尊、喧華上等、愛羅武勇、ふん」
一同「天上天下唯我独尊、喧華上等、愛羅武勇」
イ「マブチだけにマブいねぇ。はい、では早口言葉はこの辺にして、次は発音しにくい単語を三回、言ってみましょうか。ではいきます。マサチューセッツ工科大学、マサチューセッツ工科大学、マサチューセッツ工科大学、はい」
一同「マサチューセッツ工科大学、マサチューセッツ工科大学、マサチューセッツ工科大学」
ハ「万景峰号(まんぎょんぼんごう)、万景峰号、万景峰号、はい」
一同「万景峰号(まんぎょんぼんごう)、万景峰号、万景峰号」

※ こんな感じで続いたあと・・・

イ「はい、ではようやくお待ちかね、ボイサーの実践練習にいきましょうか。サクラさんのお父さん、御協力お願いしますね」
父「うぉっほん、では早速・・・。まずは基本から。御客様のお掛けになった電話番号は現在使われておりません、はい」
一同「御客様のお掛けになった電話番号は現在使われておりません」
父「番号をお確かめになってもう一度お掛け直しください、はい」
一同「番号をお確かめになってもう一度お掛け直しください」
父「何だか昔を思い出すなぁ。では次。次の交差点を左折、その後しばらく道なりです、はい」
一同「次の交差点を左折、その後しばらく道なりです」
父「まもなく三番線に新宿、渋谷方面の電車が参ります。『え~三番線山手線到着で~す』。はい」
一同「まもなく三番線に新宿、渋谷方面の電車が参ります。『え~三番線山手線到着で~す』」
ウ「先生! 自動音声じゃない部分も混ざっていると思います!」
イ「まぁいいじゃないですか。それがプロのボイサーってことですよね、お父さん」
父「そうですともそうですとも。プロボイサーというもの、自動音声にプラスアルファが必要なんですな。利用者の気持ちを思い遣る、それがプロってもんじゃないですか~?」
ウ「確かに・・・そうかもしれません。失礼しました!勉強になりました!」
父「その気持ちを持って、じゃあここから応用問題いきますぞ~。準備はいいですか~?」
一同「は~い」
父「(トラックの音声風)ピッピッ、バックします。ピッピッ、バックします。ピッピッ、バッ・・・ってアブナ~イ、トラックの真後ろにカルガモの親子が~! はい」
一同「ピッピッ、バックします。ピッピッ、バックします。ピッピッ、バッ・・・ってアブナ~イ、トラックの真後ろにカルガモの親子が~!」
マ「いや居るわけね~だろ!」
父「ぱんぽーん、お風呂が沸きました。お風呂が沸きました。奥さ~ん、今日もいい湯加減ですぞ~! 何なら・・・一緒に入っちゃいますか~? はい」
一同「ぱんぽーん、お風呂が沸きました。お風呂が沸きました。奥さ~ん、今日もいい湯加減ですぞ~! 何なら・・・一緒に入っちゃいますか~?」
マ「単なるセクハラじゃね~か!」
父「ピッポッパッ。レンジ、あたため5分を設定しました。あたためをスタートします。奥さん、最近いつもレンジでチンじゃないか。あんたの娘さんは、母親の温もりをたったの5分のあたためで、毎日感じてるんですよ・・・、はい」
一同「ピッポッパッ。レンジ、あたため5分を設定しました。あたためをスタートします。奥さん、最近いつもレンジでチンじゃないか。あんたの娘さんは、母親の温もりをたったの5分のあたためで、毎日感じてるんですよ・・・」
マ「いや余計なお世話だろ、人んちの家庭事情なんて」
イ「はい、とまぁこのような感じで、利用者の気持ち、立場を思い遣ってあげるというのが、プロのボイサーの腕の見せ所というわけですね、お父さん」
父「そんですとも。私も始めの頃は、どうも緊張して言えなかったり、『部外者がそんなこと言っていいのか』って良く悩んどったんです、でも今はその悩みもすっきりして、毎日が楽しくてたまらんのですよ、はっはっは~」
マ「いやずっと悩み続けろよ、人の生活に介入して、みのもんた気取りか!」
イ「まぁ確かに、ボイサーもいくつか問題を持っています。例えば、マブチくんが今言ったようなプライバシーという問題、これも重要です。ボイサーは、担当場所の状態を絶えずチェックするために、支給された専用の最新機器を使って映像や音声をリアルタイムで受け取っているわけですから、ある意味盗聴や盗撮との垣根があいまいになってしまったんですね」
父「あぁ、そういえば友人のボイサーが、こんなことをしとったなぁ。さくら、あの話、再現するぞ」
サ「あ、父ちゃん、あの話だね!わかった!」
父「んじゃちょっとこっち来んさい」
   父とサクラ、前に出て寸劇開始。恋人のように手を取り向き合う二人

父「こんなロマンティックな夜に・・・君と一緒に居られて、幸せだよ」
マ「なんだこの猿芝居」
サ「えぇ、私も幸せよ、ぴょん吉さん」
マ「またど根性ガエルかよ!」
コ「あたしの持ちネタが・・・」
父「月の光も綺麗だ・・・軽く、一緒に踊らないかい?」
サ「えぇ、喜んで、ヒロシさん・・・」
マ「いやど根性ガエルだけどキャラ変わってるし!」

   父、ラジカセに電源を入れる仕草
   曲『アンチェインド・メロディ』が流れ、曲に合わせて踊る二人

ウ「ロマンティックねぇ」
ハ「わしの若い頃を思い出すのぉ」
マ「いや主旨変わってるだろ、明らかに!」

   しばらく踊ったあと、踊りを止め見つめ合う二人。黙ってうなずく。
   手を取り合ってラジカセのボリュームを落とし、電気を消す。(舞台上、薄暗くなる)

父「と、ちょうどその時! 友人が担当していたビデオデッキが作動したんじゃ。『ピピピピッ、ピピピピッ、まもなくタイマー設定時間です。ギルガメッシュないとの再放送が始まります』。友人が発したその言葉で、二人のいいムードはぶち壊し。結局、このことが原因で別れてしまったんですね~」
ウ「その女性、可哀想・・・」
マ「よりによってギルガメッシュないとだぜ、当然じゃねぇの?」
コ「アニメだったらまだ良かったのに・・・」
父「その友人はこの事件に非常にショックを受けましてな、『私は人の私生活に介入してしまった、人生を狂わせてしまったのかもしれない』って思い悩んでおったのです。現場の状況を知っていながら、口にすればどうなるか予想できるような言葉を発しなければならない、その辛さったらないですなぁ」
イ「ボイサーのルールとして、あらかじめ設定された機能を解除することはできないですからね、いくら中身が人間だからと言って、自動音声は自動音声としてのたちばがありますから。悲惨な出来事でしたね・・・」
ウ「ボイサーの厳しさを垣間見た気がします・・・」
イ「でもねウエハラさん、もちろんボイサーならではの貢献の仕方もあるんですよ。例えば公共施設や銀行では、逆に積極的にボイサーからの働きかけをやっているんですよ」
父「では実際にやっていますぞ~。ではコマノさん、御協力お願いします」
コ「えぇっ、あたしですか? でも~・・・」
父「いいからいいから、(コマノの耳元で指示出し)よし、ではこの設定でいきますぞ」
コ「はい・・・」
コマノ心の声「負けるなワタシ! こんな寸劇の一つや二つできないようじゃ、声優になんてなれないわ!」

   銀行のATMの設定。コマノ、老人のように腰を屈め、ATMの前に立つ

父「通帳、またはカードをお入れ下さい。(この後はコマノの動作に合わせて)あぁ、おばあちゃん、これは通帳じゃなくて電話帳ですよ! でんわちょう! 機械に入りっこないんだから」
マ「どういう間違え方だよ、どう見ても重すぎるじゃねぇか!」
ハ「うっ、ワシの妻のことを思い出すのぉ、良く通帳と間違えて電話帳を持って行っていたわい。今頃あの世でのんびりと過ごしとるかのぉ」
ウ「あぁ、うちの母もそういえば・・・。今は寝たきりで出歩けなくなってしまったけれど、昔は良く持ち歩いていたわ・・・」
マ「みんなボケ過ぎだろ!」
父「お忘れ物がございます。お忘れ物がございます。お忘れ物がございます」
マ「どんだけ不注意なんだよ!」
父「おわすれものがございます。おばあちゃん、忘れ物、ほら入れ歯、入れ歯!」
マ「入れ歯外してたのかよ! 何のために!」
ハ「うぅぅっ、サチコや~! お前もよく入れ歯を銀行に忘れていたなぁ。どうしてワシを置いて先立ってしまったんじゃ~! お~いおいおいおい(泣く)」
ウ「あぁ、お母さん、今じゃ入れ歯もろくに忘れられなくなって、どうして寝たきりになってしまったの! え~んえんえんえん(泣く)」
マ「またこいつらもか! どんだけ不注意天国なんだこの国は! そんなんだからオレは・・・」
ハ&ウ「お~いおいおいおい、お~いおいおいおい」
イ「ほら、ウエハラさんとハラダさん、泣きやんでください。ボイサーになれば、奥さんやお母さん達のような人々のために貢献する事もできるんですよ。ですから、立派なボイサーになれるよう、頑張ろうじゃないですか」
ハ&ウ&サ「はい!」
父「じゃあ早速実践練習の続きを行きますぞ~」
マ「ちょっと待てよ・・・」
イ「それではお父さん、お願いします」
マ「ちょっと待てよ!」

   一同、驚いてマブチを見る。沈黙。

マ「あのなぁ、そういった『貢献』だとか『親のため』だとか、そんな下らない理由を嬉しそうに語るんじゃねぇよ。みんながみんな、そんな気持ちでボイサーになろうとしてるんじゃねぇんだよ。オレなんてなぁ、オレなんてなぁ、ついこの間までそういった老人達を騙して生計を立ててたんだよ!」
イ「振り込め詐欺、ですか・・・?」
マ「あぁそうだよ。毎日毎日名簿を見て電話してよ、『オレオレ、オレオレ』って言ってよ、罪もない人たちを騙し続けてきたんだよ! だからなぁ、もしかしたらオレは、お前らの奥さんやお母さんを騙してた可能性だってあるんだよ!」
ウ「マブチさん・・・」
マ「オレはな、そんな生活が嫌になって逃げ出したくて、でもグループからは抜けようにも抜けられなくて、もう我慢ができなくなって警察に自首して、それでこの後ここに来たんだよ。だからな、オレはお前らと違って立派な動機なんてねぇんだ、単なる罪滅ぼしの意識しかねぇんだよ・・・」
ハ「何を言っておる、単なる罪滅ぼし? それこそ立派な動機じゃないか。立派に更正を目指している証拠じゃないか」
イ「マブチくん、ボイサーはそういった人達のためのものでもあるんですよ。罪を犯してしまった人、ニートだった人、心の病だった人、そんな人々が社会復帰できるよう支援する、それもボイサーの大事な意義です」
マ「先生・・・」
父「青年、君は今日の授業中、ずっと皆にツッコミを入れておりましたな。最初は単に難癖をつけているだけかと思って聞いていたけれど、本当はそうじゃなかった。もっと真剣な授業を求めていたんですな。そういった真剣な心があれば、必ず立派なボイサーになれますぞ、ワタシが保証します。だから、大船に乗った気になって、授業の続きに励もうではあ~りませんか」
マ「・・・」
イ「マブチくん・・・」
マ「・・・」
イ「マブチくん・・・」
マ「・・・」
イ「マブチ~!」
マ「!」
イ「おまえ男だろ! 悔しくないのか!」
マ「先生・・・」
イ「悔しくないのかよ!」
マ「く、悔しいです!」
イ「悔しくないのか!」
マ「悔しいです!」
イ「よ~し、お前の言いたい事はよく分かった。オレはこれからお前を殴るっ! 歯を食いしばれ!」
マ「ハイ!」

    イトウ、マブチを思い切りビンタする。そして何故かその場の全員を殴る。
マブチ以外の全員、舞台上に倒れる

イ「マブチ! 悔しいなら誰でもそう思う。だが思うだけじゃ駄目だ! それでお前はどうしたいんだ~!」
マ「勝ちたいですっ!」

    曲『スクールウォーズ』
    曲のイントロに合わせて皆立ち上がる

イ「よし、マブチ、来い! トライ、トライ、トライ、トライ・・・」
マ「先生~!」

    マブチ、ラグビーボールを抱え、イトウへ抱きつく

イ「マブチ~!」
マ「せんせ~い!」

    マブチ、イトウを抱きかかえたまま回転する

一同「せんせ~い!」

    立ち上がった回りのメンバーが、一人ずつ先生と叫びながら二人に抱きつこうとする
    しかし二人は回転したまま、皆を吹き飛ばす
    曲、大きくなり暗転。暫く曲が流れた後フェードアウト

    曲が終わると共に、照明つく。一同、元の位置に戻っている
ウ「先生! では続きをしましょう! なんだか私、ますますボイサーになりたいという気持ちが大きくなりました!」
ハ「ワシもじゃ!」
サ「あたしも!」
コ「わ、私も・・・」
コマノ心の声「ワタシの動機は声優になること! だからまずは立派なボイサーになってみせるわ!」
イ「はい、皆さん、今日の気持ちを忘れず、これからの授業にも励んで下さいね。しかしながら今日は、もう授業時間が残り少なくなってしまったので、実践練習はここまでにしましょう。サクラさんのお父さん、御協力、本当にありがとうございました」
父「いえいえ、お役に立てましたら光栄です」
イえ~、実は今日は授業の最後に、簡単なテストを行いたいと思います」
一同「え~!(いいとも風に)」
イ「まぁまぁ、そう言わずに。テストの説明をしますね。今日の授業で初めて実践練習を行いましたが、まず第一に必要な事は、タイミングを計った発声だということがわかったかと思います。絶妙のタイミングでの発声が、プロボイサーへの第一歩です。今日は、皆さんの聞き慣れたCMやジングルといった音源を流します。皆さんはその音に合わせて、適切な言葉を発してください。ではまずはお手本ということで、お父さんお願いできますか」
父「いいとも~!」
イ「では問題はこちらです。いきますよ~」

    ジングル「めちゃイケのオープニング」流れる。そのタイミングに合わせ・・・

父「Wanna Cool We Are!」
一同「お~!」(拍手)
イ「はい、というような感じでテストを行います。順番に行きましょう。ちなみに、このテストで一番評価の高かった方は特典がありますので、皆さん奮って答えてくださいね。では・・・まずはサクラさん」
サ「は~い!」
イ「それでは問題です、どうぞ!」

    といった形で、順番に問題に答えていく。問題は当日も秘密。
    コマノだけは毎回同じ問題。トトロの一場面(「メイの馬鹿!」「ごめんなさい」)と
いうシーンを完璧に一人二役でこなす

イ「はい、これで全員終了しましたね。では結果を決めたいと思います。少々お待ち下さい」

     イトウ、サクラ父と打ち合わせる

イ「はい、決まりました。では発表をお父さん、お願いします」
父「わかりました。第一回実施テスト、最高点は・・・」

     ドラムロール

父「コマノさんです!」
コ「や、やったわ~! う~ん・・・」
ウ「コマノさん! しっかり! 先生、嬉しすぎて気を失っちゃいました」
サ「父ちゃん、なんであたしじゃないのさ~」
マ「いやていうか、話の流れ上、普通オレじゃねぇの?」
イ「皆さん第一回というのに素晴らしい出来で、私も非常に満足していますが、今回はお父さんとの選考の結果、コマノさんに決定したいと思います。お父さん、選評をいただけますか」
父「メイちゃ~ん!」(トトロのお婆さんのモノマネで)
イ「はい、というわけで、コマノさんには・・・って本人はまだ気を失っていますが、今回の特典として、とある劇団の前説、後説を担当してもらいます。つまり初仕事ですね。次回以降もこういった特典を用意していますので、皆さん予習復習をしっかりとして、早く一人前のボイサーとなれるよう、皆で頑張っていきましょう!」
一同「はい!」

    SEチャイム

イ「ちょうどチャイムが鳴りましたね。それでは本日の授業を終わります」
ウ「起立~! 気を付け、礼、解散~!」

    生徒達、皆で立ち上がり一礼。そして暗転。
    BGM『ダンシングクイーン』流れる
    照明がつくと、部隊にはイトウとサクラ父だけ残っている

父「先生、このクラスの生徒達はいいですなぁ。皆真剣で、やる気があって」
イ「いやぁ、お恥ずかしい事に前回までは全くまとまりがなかったんですが、今日の授業のお陰で、私も自信が持てました。今では私の自慢のクラスですよ」
父「私も初心を思い出しましたよ~。新鮮でした。また良ければ呼んでくださ~い」
イ「えぇ、また次回必ず・・・」

     イトウとサクラ父、笑いながら教室を後にする

コマノ心の声「こうして気を失っている間に、ワタシのデビューは決まっていました。演劇はあまり観ないので詳しくないのですが、YAX直線とかいう劇団の仕事らしいです。何はともあれ、ワタシにとっては声優への夢の第一歩。精一杯ガンバルンバ!」

     BGMフェードアウトで幕


上演:2006年10月15日 新宿ゴールデン街劇場

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鬼が来たりて餅を食う 【後篇・追記】   (2007/04/13)
【前篇・中篇】はこちら


【後篇】

「宮良くん……。これは……?」
「先生、実は僕も今回帰ってきて驚いたのです。まさかこの島でもこんなことになるなんて……」
私と宮良くんは、聖地へと繋がっているはずの浜にそびえ立つ、リゾートホテルの工事現場を呆然と眺めた。

「まるで流れをせき止める関所のようだ。これではせっかくの祭りが台無しじゃないか」
「祖父から聞いた話では、このリゾート開発は島民の多くが反対したようです。僕の祖父もそうでした。しかし現在の村長は、島の活性化が最も重要だと考えて、反対を押し切り開発を進めたそうです。先代の村長はムークイによって活性化させようとしていたのですが、全く正反対の方針になってしまいましたね……」
「しかしこれでは、祭りはできないんじゃないかね? 鬼をお迎えして、そして最後に送り出す会場であるこの浜がこれでは、儀式を行うのは不可能じゃないか? そもそも工事の邪魔になるだろうし、儀式を行えるのかどうか……」
「そこは村長が認めたそうです。要は反対意見に対して譲歩したということなんでしょう。50年に一度の大祭は、今まで以上に盛大な祭りにしたいと、開発業者も含めて島外の企業からも資金を集めているようですよ」
「なるほど。街中で目に付いていた観光客のような人々は、その関係者なのだね」
「えぇ。それもあるでしょうし、島外で簡単ではありますが観光キャンペーンも行っているようです。確かに少し活気が出ているようにも思えますが、僕にはそれが正しいのかどうか……」
「村長には村長の考えがあるということなのだろうね。しかしだからといって、私としてはこの光景は残念だよ……。ひどく残念だ。願わくば、明日の祭りがうまく行けばいいのだけどね……」
私は、そのリゾート開発の現場を見ると、何故か訳もなく不安に襲われた。こうして、祭りの本番を迎えたのだった。


翌日、私は祭りを見届けようと、朝から南東の浜に来ていた。宮良くんはムントゥ役をこなすため、早朝から既に出掛けている。皆で集合して着替え、本番に備えているのだろう。
海は、穏やかに白い波で幾重もの柔らかな曲線を描いている。天気も良い。絶好のお祭り日和だといえるのかもしれない。
そうしているうちに、島民達も集まってきた。老人達の輪の中には宮良くんの祖父の姿も見える。
「それでは、ムークイの大祭を始めます」という村長の挨拶と共に、ムントゥ達の儀式で祭りの幕は上がった。

体中を泥まみれにしたムントゥの一行が、海の中に入りその泥を少しずつ海水に溶かしながら、沖へと向かって進んでいく。琉球に伝わる踊りであるカチャーシーに似た踊りをしながら、肩まで海水に浸かるほどの沖で円を描いたかと思うと、暫くするとその円は分散し、二列になってまるでその列の間に鬼を歩かせているような形で浜に向かって戻ってくる。
そのムントゥを待つ浜では、村民達が独特の祝詞のような歌を歌い上げながら、沖に向かって祈っている。そしてそうした村民達の様子を、遠巻きに観光客達が眺めている。おそらくこれまでのムークイには無い光景が、今年は繰り広げられていた。もちろんその浜の横には、建設中の観光施設が大きく影を落としているのだ。
ムントゥ達が浜に到着すると、観光客から歓声が上がり、ある客はカメラで写真を撮り、またある客はビデオカメラでその光景を撮影していた。私はというと、その光景が奇妙でたまらず、ムントゥの中に宮良くんの姿を探すことも忘れ、考え込んでしまった。「果たしてこのムークイは正しいのだろうか?」と。

ムントゥ達はずぶ濡れのままなおも浜から島内へと進み続けると、その列を取り囲むように島民達も共に行進し、更には観光客までそれに続いた。その行列は島内一の聖域であるウタキへと進路を向け、踊り歌いながらゆっくりと進んでいく。
私もその列に続き歩いていたのだが、何故だか胸騒ぎがし、ふと歩みを止め浜辺を振り返ってみると、突風がビュンと吹いたかと思うと、ほんの一刹那だけ、巨大で黒い幻影を見たような錯覚に襲われた。そしてそれと同時に、工事現場から何かが崩れる音がしたため、列に続いていた工事関係者は慌てて列を離れ、音がした現場へと走っていった。
他の島民達は、突風で足場か何かが倒れたのだろうと特に気にすることもなく、また御嶽への行進を続けた。私自身もその列に戻ったものの、頭の中の不安感は増していき、その不安と先程見た黒い巨大な影が重なり、何とも言えない不気味さを感じたのだった。

儀式の舞台は御嶽へと移り、主役はムントゥからノロへと変わっていた。ムントゥ達はその間に改めて体中に泥を塗りたくり、その後の儀式に備えている。
ノロ役の女の子は確か宮良くんの同級生だったはずだ。この日のために、沖縄本島から戻ってきているという。その女の子は、御嶽の鬼の台座の前で華麗に舞っている。思わず周りの観光客からも歓声が上がった。
ノロが舞っている間に準備を整えたムントゥ達は、再度泥だらけになった体を左右に振りながら、台座の周りで円を描き踊り始めた。そして踊り終えると、その周りを取り囲んでいる島民達一人一人に向かって歩み寄り、ガジュマルの樹でできた杖を大げさに振り上げては、身体についた泥を皆にこすりつけていく。その行事に慣れている島民達は「おまじないだ」とばかりにその汚れを喜び、まだ物心のついていない幼子達は、ムントゥの異形の姿も相まって、恐がり泣き出してしまい、周りの大人達の微笑みを誘っている。
観光客はというと、その儀式に喜んで参加し、服が泥だらけになってもそれを記念にして満足げな客も居れば、自分に泥がつけられる瞬間をカメラに収める客も居て、一張羅の服なのか、頑なに汚れるのを拒否し、逃げまどっている客も居る。そういう客に対してどうすれば良いのか、これまでは島民相手にしか儀式をしたことのないムントゥ役の島民達は、若干とまどっている様子が窺えた。

と、その時であった。「キャーッ」という叫び声がしたかと思うと、その声の叫び主である女性の観光客は、ブランド物と思われる派手なデザインのワンピースに、大きく泥を塗りたくられていた。へなへなと腰が砕けて座り込む女性に、同伴していた男性客が駆け寄る。放心状態の女性客の腰元には、まるで大きな手に捕まれたかのような形で泥にまみれている。皆の視線がその女性に集まっていたその時、今度はノロから悲鳴が上がった。そしてその悲鳴でノロの方向に視線を改めた我々が見た光景は、遙か遠くニライカナイより来訪した、まさしく鬼の神の姿だった。

ノロが台座前の祭壇に供えていた餅は、宙に浮かんだかと思うと、奇妙な音と共に霧散した。

まるで手品のようなその光景は、御嶽に集まった多くの人間が目撃し、そしてその手品には何の種も仕掛けもないことを本能で知った。それはまるで、台座の上に巨大な生き物が、そう、まさに巨大な鬼の神が、自分に対して供えられた餅を、さも当然のごとくに口に運んでいるようだった。その姿は我々人間の目には見えないものの、その場に居た誰もが、この儀式の主賓である鬼の姿を想像し、儀式の詳しい中身を知らない観光客であっても、人間以外の存在が関わった超常現象だとは認識できたはずだ。
あまりのことに、その場は一瞬静まりかえったが、次の瞬間には堰が切れたようにあちこちから悲鳴が上がり、ひとまずは一目散にこの場から逃げようと、多くの人々は必死に走り出していた。私自身も怖いという感情はあったものの、それよりもこの目の前で繰り広げられている事象に引きずり込まれているかのように、その場から抜け出すことは考えられなかった。
おそらく村長であろうか。騒然となった御嶽内を必死に落ち着かせようと声を上げて指示している。しかしながらその声は効力を持たず、より大きな喧噪に飲み込まれていった。
ふと宮良くんのことが気になり、その所在を探すと、ムントゥの被り物を捨てた宮良くんは、泥だらけのまま、ノロ役の女の子に付き添っている。女の子はあの光景を一番近くで目撃したショックからか、立っているのがやっとで、足は震え上がって歩けないでいるようだった。

「宮良くん、大丈夫かね!」
私は彼らの元に駆け寄り、声を掛けた。
「先生! 僕は大丈夫ですが、彼女が……」
宮良くんが支えている女の子は顔面蒼白で、気が動転しているのがわかる。
「ひとまずこの場から離れた方がいい。落ち着いて腰を下ろせるようなところはないかね?」
「それなら南東の浜に向かう途中に、私の親戚が経営している旅館があります。そこならここから近いですし、しばらく休ませてくれると思います」
「よし、彼女をそこへ連れて行こう」
私は宮良くんの反対側に回り、彼女の肩の片方を支えると、三人でその場を離れた。その旅館まで懸命に歩きながら、御嶽の様子を振り返って窺ってみると、島の老人達はいつの間にか泥だらけになっている台座に向かって、皆で懸命に何かを唱えていた。その光景は、台座に鎮座した鬼の神を、まるで崇めているようだった。

旅館の一室に女の子を運び、落ち着いたことを確認した私は、再度御嶽へと向かおうと、すぐに旅館の外へと飛び出した。やはりあの不可思議な現象の謎を少しでも知りたいという気持ちを抑えられなかったからだ。私の学者としての気質がそうさせているのだろう。しかしながら私は、御嶽ではなく南東の浜で、その謎の答えの核心に迫ったのだった。

私が旅館の外に出てみると、街路には泥のようなものでつけられた巨大な足跡が、浜へと向かって続いていた。そして旅館の門扉にも、泥がつけられていた。その足跡を見た私は、すぐにあの鬼の神の物であると確信し、急いでその足跡を追って浜へと続く道を進んだ。
しばらく進んだ後、私はムントゥの姿になった島の老人達の一団を目撃した。朝のムントゥ達とは年季の違う見事な鬼招きの踊りを踊っている。まるで鬼の神を浜へと導いているかのようだ。そしておそらくそれは、事実なのだろう。老人達が進んだ道の後には、私が追いかけていた泥の足跡が出来ている。私は巨大な鬼の神が、ムントゥ達の鬼招きの踊りに誘導されて歩んでいる姿を思い浮かべた。その光景は、目の前で繰り広げられている、現実の姿でもあった。

老人達は浜へとついてもそのまま踊りを止めず、沖まで進んでいき、ムークイの儀式の手順通り、杖や面を沖へと流した。その杖や面は沖へと向かってまっすぐに流され、そしてその後には海面に泥で出来た線が続いていた。まるで泥だらけの生物が、泥を絶えず海水へ流しながら沖へ沖へと進んでいるようだった。辺りは夕焼けの暖かな色に包まれており、本来なら祭りのクライマックスを見守るはずのこの浜で、思いも掛けない不可思議な現象のクライマックスを見ることになった。浜に居る私と、沖でムントゥの衣装を脱いだ老人達は、その泥で出来た線が見えなくなるまで、その場に立ちつくし見守った。


その日の夜、私は宮良くんの祖父から再度話を聞いた。ムントゥの老人達の中に、私は宮良くんの祖父の姿を確認していたからだった。老人は私に、事の真相を語ってくれた。
宮良老人が言うには、今回のような出来事は想定の範囲内だったという。昔から語り続けられていたムークイの話の中には、今回のような出来事が起こった際の対処法も含まれていたのだ。しかしながらそうした非科学的な部分は、やがて風化してしまい、その話を知っていたのは島の老人達だけ、つまりあの時とっさにムントゥへと成り代わり、儀式を終わらせたあのムントゥ達がそうだったのだ。だからこそ、皆が混乱し逃げまどう中であっても、儀式を遂行できたのだろう。
宮良老人の話で明らかになったのはそれだけではなかった。この祭りが始まったきっかけこそが、今回のような鬼の来訪だったのだ。だからこそあのような儀式で、毎年必ず鬼を出迎え、持て成し、そしてまたニライカナイへと帰しているのだろう。この島の人々にとって鬼の来訪は年中行事であり、祭りへと昇華することによって無病息災を願う現在の姿へと変貌を遂げたのだ。この島の平和を願う先人達の想いから生まれた祭り、それが「ムークイ」だったのだろう。

翌日、私は島を後にした。前日には沢山居た観光客達は、あの騒ぎで昨日のうちにほとんどが島を離れたようで、島を後にする船にはほとんど人が乗っていなかった。
どんどん小さくなっていく漁港には、手を振る宮良くんの姿があった。その横には元気になった女の子の姿もある。
昨日の出来事の顛末は、あの場に居合わせた老人達との約束により、他の島民達には伏せることとなっていたが、島民達は何とか平静を取り戻しているようだ。もうしばらくすれば、「なんだか不思議な体験だった」ということで結論づけられ、流れ続ける日々の生活の中に埋もれ、色褪せていくことだろう。

もちろん、私にとっては忘れようにも忘れられない出来事だった。何故遙か昔に鬼が島へ現れたのか。何故あの祭りが島に存在しているのか。そして何故、今年になって再び鬼がやって来たのか。その理由は私には推し量ることが出来ない。そしておそらく誰も、推し量ることが出来ないだろう。
古くから伝わる習俗には必ずその理由がある。しかしながらその全てを正しく知ることが出来るとは限らない。それが民俗学であり、私の進んでいる道なのだから。





【追記】

このノートに再び書く機会が訪れるとは。まずそこに対して驚きがあるが、より大きな驚きは、あの出来事に対してある程度角度の高い、自分なりの結論を出せたことだろう。
あの出来事から数ヶ月後、この追記を書いている数日前のことだ。あの島に建設中だったリゾートホテルが、完成間近になり突然崩壊したと、ニュースで伝えられた。そのニュースでは原因不明のこの崩壊は、竜巻の仕業だの地崩れだのと学者達がしきり顔で持論を展開している。

どうやら工事の関係者が皆居なくなった深夜に、大きな音と共がしたかと思うと、ほぼ出来上がっていたはずの建物は、瓦礫の山と化していたという。
ニュースでは工事関係者のインタビューなどに続き、赤土問題などで揺れる沖縄のリゾート開発の是非が論じられていた。その瞬間、私の頭の中ではあの事件の真相に対して急速に論を積み重ね、近づき、そして私なりの結論に至ったのだった。

今回の事件のポイントは、「泥」だったのだ。「泥」とはつまりは「土」である。ムークイには、何故か泥が大きく関連している。鬼の付き人であるムントゥは身体中を泥だらけにし、そして人、家に限らず島中に泥を塗りたくる。そして今年のあの事件でも、泥は至る所で目にした。
鬼が歩いた道には泥で足跡が出来、鬼が座った台座は泥だらけだった。おそらく鬼に捕まれたであろう観光客のワンピースには、泥でくっきりと手形がついていた。そして、鬼が去っていった海面には、泥で出来た線が沖へと向かって伸びていた。
つまり、鬼にとって、少なくともあの島にニライカナイからやってくる鬼にとって、「泥」は重要なファクターであった。おそらく鬼は泥を好み、そして身体は泥で覆われているのだ。島中を泥だらけにするのは、その鬼に対する最大の持て成しであり、だからこそ付き人であるムントゥも全身を泥で覆っているのだ。

数百年前、あの島一帯は大津波に襲われた。その時、海には島を飲み込み、大量の土を海へと流し込んだ。その土が海水と交わり泥となり、鬼が住む異境(そこを島民はニライカナイと呼んだのだろう)へと流れ着き、鬼はその泥に誘われて島へと来訪したのだろう。
鬼は津波で島の中心部へと打ち上げられた大岩の上に腰を下ろし、津波で被害に遭い疲れ果てた島民達の歓迎を受けたのだ。そして鬼が帰った後、島は平和を取り戻した。それが鬼の来訪による御利益だったのかどうかはわからない。しかしそんなことは当時の島民達にはどうでも良く、心の拠り所が必要だったのだ。二度とあのような大災害が起きぬよう、それを信じられるような拠り所が。

こうして鬼の来訪とその歓迎は、島の平和と島民の無病息災を願う行事として定着し、数百年経っても祭りとして伝えられていたのだろう。その間にまた本当に鬼が来てくれることを密かに願い、鬼が来訪した際の対処法も含め、伝承したのだ。

そして今年、ちょうど50年に一度の大祭の年に、鬼はやって来た。それは、リゾート開発というこれまでの島には無かった存在が原因だった。開発によって海へと流れ出た土が、鬼を島へと再度招き入れたのだろう。果たして、鬼は島に来訪し、そして去っていった。
その時、老人達が扮したムントゥはある儀式を行っていた。それは、島中の家々に泥をつけて回るという儀式だった。事件のあった夜、宮良老人は私にそう語っている。「1軒1軒、全ての家に泥をつけるようにと、伝えられていたのでそれを忠実に実行した」と。
しかしながら、泥をつけたくてもつけられない場所が一つだけ存在した。それは、その当時から工事中で、部外者は近づくことが出来なかったリゾートホテルであった。そう、あの時に唯一泥つけの儀式を行わなかったリゾートホテルが、今回謎の崩壊に遭った。

それを祟りと呼んで良いのかは分からない。しかしあの日島に来訪した鬼が関わっていることは間違いない。そしてそれは、あの老人達も気づいていることだろう。だからこそ、来年以降もあの祭りを、あの儀式を長く続けていけるよう、子孫達に伝承をしていくはずだ。

「ムークイ」、その不思議な年中行事が、来年も、それ以降も、あの島では続いていくに違いない。


鬼が来たりて餅を食う 【前篇・中篇】   (2007/02/05)
【前篇】

節分での豆まきという行事は、日本ならではの行事だと言える。そもそも“鬼”という存在は、日本と海外(というか中国)とでは扱いも存在意義も違うわけで、その“鬼”を追い払い、新しく始まる一年(暦上では立春の前日、つまり春に変わる前日に豆まきは行われる。春夏秋冬が新しく始まる前日、という位置付けなのだ)の無病息災を願うための豆まきは、日本独特と言っても過言ではないだろう。
「鬼は~外~! 福は~内~!」という掛け声はあまりにも有名で、かつ「撒いた豆を自分の歳の数より一つ多く食べると身体が丈夫になり風邪をひかない」といった習わしも伝えられている。子供にとっては夢中になる行事の一つであり、誰でも幼き頃に興奮しながら鬼の面を被った大人(多くの場合は幼稚園や小学校の先生や親戚のおじさんが多かった)を追い掛け、豆をぶつけた思い出があるのではないだろうか。

近年では、これまでの節分で恒例だった福豆などといった豆類の他、「恵方巻」なる寿司も登場し、店頭を賑わせているが、この「恵方巻」、実は一地方(一説には大阪の商人?)のみのものだったものを、某大手のコンビニが全国展開し、現在のように人気が出たという。
伝統行事も今では商品戦略によって左右されるというのも、よくよく考えてみると面白くもあり、寂しくもある。

さて、2月3日には全国各地で節分祭が催されており、大きな神社などでは芸能人やスポーツ選手、国会議員など有名人をゲストに迎え、イベント化されているが、筆者が一昨年に偶然遭遇した筑波のお祭りも、強烈な印象を筆者に与えた。


その日、偶然にも筑波の友人を訪ねた筆者は、「ちょっくら山に登るか!」と軽い気持ちでその友人と共につくば山への登頂を開始。男体山、女体山などの名所を見学し、山を下りていたのであるが、その際に通りがかった神社にて、節分祭が催されることを知り、せっかくだから参加してみようと、開催時刻まで境内で待つことにした。

開始時刻が近づくにつれ、境内には所狭しと地元の住民が集まってきた。神社が似合う老夫婦もいれば、動物園などに居そうなファミリー(小さい子供が父親に肩車をしてもらっているような、典型的な家族連れ)、およそ神社には不釣り合いな地元のヤンキーの姿も見える。その光景に、我々も興奮しつつ始まりの時刻を今か今かと待っていたのだが、ふと友人があることに気付いた。
何故か皆、ビニール袋や段ボール箱といったものを手に携えているのである。それこそ老夫婦からヤンキーまで、皆手にしているではないか。いったい何故?

訳の分からぬ我々二人をまるで取り囲むかのように、周囲の人垣はどんどん増え、そして開始時刻も刻一刻と近づいていく。そして遂に開始時刻を迎え、神社の壇上にはつくば市の市長及び市議会議員、神主、地元のゲストなど10名近くの人々が紋付き袴で位置に着いている。
司会のおじさんの掛け声と共に、遂に祭りが始まった。そしてその刹那、我々は皆が手に持つ意味を知ったのだった。

「それでははじめ!」

開始の合図が会場にこだますると、壇上の人々(以下、便宜上“豆撒き人”と記す)が境内の人混みに向かって物を投げ込み始めた。
「鬼は外、福は内」なんて掛け声をしていたのもつかの間、境内の観客からの「こっちに投げて!」「市長、こっちこっち!」などという声に触発されたのか、豆撒き人達は声のする方に向かって懸命に物を投げ入れる。そしてその投げ入れられた物を、観客は手にしたビニール袋や段ボール箱を上空にかざし、玉入れの容量でうまくキャッチしていく。
肩車をした子供を使い、より高いところを位置取りした父親は、周りから「卑怯だぞ」と罵倒され、開始前までは涼しい顔で佇んでいた化粧がバッチリ決まったお嬢さんは、髪を振り乱しておばさん達と取り合いをしている。おばさんも負けじと奇声を発しながら奪い合う。さながら漫画のバーゲンのワンシーンのようであるが、場所は神社の境内で、上から降ってくる物は、カップラーメンやら駄菓子やら餅やら、ワンコイン出せばどこでも買えるような物ばかり。

それなのに周りの人々ときたら、あたかも小判をばらまく鼠小僧に群がる町民のように、必死になって取り合っている。

あまりの光景に呆然とした筆者に、杖をついた老人が倒れかかってきた。必死に抱きかかえ救出する筆者。まさかライブのモッシュで培った救出法を、神社の境内でしかも老人に対して使うことになるとは。人生いつ何が役に立つかなんてわからないものだ。そう感慨に耽る間もなく、せっかく救出された老人は、またも人混みの中へ、自らの意志で飛び込んでいった。

ある意味「阿鼻叫喚」のような光景を目の当たりにし、我々は呆然と立ちつくすものの、後からは人の波が途切れることなく押し寄せる。とそこへ議員の投げたチャルメララーメンの袋がふわふわとまるで舞い落ちるかの如く飛んでくる。ふと気付くと、伸ばした手でラーメンを掴んでいた。反射神経と言うべきか、周りに影響されて必死になってしまったと言うべきか、かくして筆者も一つめの成果物を手にすると、何故かその後も駄菓子や餅を取ることが出来、なんだかんだで終了時には友人と合わせ5つほどの食料品を獲得していた。

「止め~!」という司会の言葉が会場に響くと、周りの人々はようやく我に返ったかのように一瞬動きを止めると、すぐに楽しげな顔を浮かべた。それまでの必死な顔(人によっては鬼のような形相だった)がまるで嘘のようだ。そしてついさっきまで押し合いへし合い、喧嘩の如く振る舞っていた隣人達と、「いやぁ今年も楽しかったわねぇ」と和気藹々と会話をしている。
そうなのだ、地元の人々にとっては、このイベントこそ“お祭り”なのだ。年に一度、地元の人々が一体化して皆で楽しむ。そんなイベントだったのだ。

そう理解した我々は、「よそ者は早めにおいとまするか」と思い立ち、足早にその場を立ち去って山を下りたのだが、あのある意味想像を絶する光景と、物を獲得した瞬間の周りからの殺気だった目線(老人のガン飛ばしを初めて経験した)は、未だ忘れられず、今でも節分で豆撒きをしている光景がテレビなどで放送されていると、その出来事を思い出すのだった。
体験してみたい方は是非、節分の日につくば山の神社へ足を運んで欲しいものだ。


このように、場所によっては節分の豆撒きがイベント化していたりする。特殊な祭りという点では、例えば埼玉にある鬼鎮神社など鬼にまつわる場所だと「鬼は外」ではなく「鬼は内」という掛け声になり、浅草や祇園などでは「お化け」と呼ばれるコスプレが披露される。その場所、その場所で様々な楽しみ方、過ごし方が出来るのも、豆撒きのユニークな点なのかもしれない。

とここまで、「節分の豆撒き」という題材で筆者の経験談も含め、つらつらと書いてきたが、最も興味深い文献が手元にある。
それは、筆者の恩師でもある、民俗学者・蓮見礼次先生が沖縄のとある地方における風習・風俗と、それにまつわる事件を書き綴ったノートだった。


【中篇】

私がその島を訪れるきっかけとなったのは、私の講義を受講している学生・宮良くんの興味深い話だった。宮良くんは、節分にまつわる日本の習俗についての講義の後、地元の島で行われる節分の祭り(宮良くんは「儀礼」という言葉を使ったのであるが)について話してくれたのだ。その話を聞き興味を覚えた私は、今年その祭りに参加するために島へ戻るという宮良くんの言葉に甘え、その島を訪れることにしたのだった。

宮古島と石垣島のちょうど真ん中辺りに位置するその島に着いたのは、2月2日のことであった。フェリーで小さな漁港に降り立つと、宮良くんが私を出迎えてくれた。節分祭は明日ではあるが、その前に島のことを調査しようと、私は一日早くこの島を訪れたのだ。さっそく私は宮良くんに連れられ、宮良くんの実家へお邪魔した。今晩は宮良くんとそのご家族のご厚意で、宿泊させていただくことになっていた。

そして私は、件の祭りに詳しいという宮良くんの祖父から話を聞くことにしたのだった。

齢90歳を数えるというそのご老人の話は、私にとって非常に興味深いものだった。そもそも沖縄の習俗として「節分」というものは無いので、その節分祭があるだけでも興味深いものだが、祭りの中身やその言い伝えから推測するに、沖縄の島々の習俗を紐解く上で重要な手がかりがあるのではないかという気がしてきたのだ。その話とは、このような内容であった。


立春の前日に、「節分祭」を行う。ムークイと呼ばれるその「節分祭」は、ニライカナイ(沖縄の方言で桃源郷のこと)へと続くと言われる島の南東の浜より、鬼の付き人役(=ムントゥと呼ばれる)が列を作り、目に見えぬ鬼の神を手招きする踊りを踊りながら島の中心部にある御嶽(ウタキ。沖縄の聖域)まで行進する。島民はそのムントゥの行列の横について歩き、島民のほとんどはその一行と行動を共にする。ムントゥは体中を藁で覆い、その藁に泥を塗りたくり、顔には異形の面を被ってガジュマルの樹で拵えた杖を持つ。
中心部の御嶽まで進んだ後、ムントゥ達は浜から招いた鬼の神を大岩の上に座らせ、その周りを円を描きながら踊る。踊りを終えたムントゥは、御嶽に集まった島民達を、手に持った杖で一人ずつ小突き、そして身体の泥を塗りつけながらまた踊り続ける。
その一連の流れが終われば、ノロ(神女)役が大岩の台座に月桃の葉で蒸した餅を捧げ、舞いを披露し、その後は島民で歌を歌い締めくくる。これがムークイの中心となる一連の儀式である。
この儀式が終われば、ムントゥは島内を歩き回り、家々の家門に泥をつけていく。時には家畜や作物をも泥で汚しながら、島内を一周し、来た場所である南東の浜まで戻り、最後は進めるところまで沖に向かって歩きながらムントゥ達は身につけている藁と面、杖を海へと流す。その頃になると夕刻で、真っ赤な夕日を背にしながら沖へと流した品々が見えなくなるまで島民は見送り、最後に鬼に供えた餅を皆で食べ、祭りを終える。
この祭りムークイは島の平和と豊年、無病息災を願い毎年行われるもので、中でも50年に一度は大祭を行い、島を挙げて行うと決められているという



宮良老人の話によれば、ちょうど今年が50年に一度の大祭であり、そのためにわざわざ宮良くんも帰省させ、祭りに参加させるのだという。
老人の記憶では物心がついたころからムークイは行われており、戦時中に一度中止した以外は毎年必ず行ってきたといい、年に一度、島を上げての行事となるため、過疎化が進むこの島にも、一時的に活気が戻るのが、現在のムークイの意義でもあると、老人は宮良くんの顔を見ながらしみじみと語ってくれた。

「先生、やはりこの祭りは特殊なものなのでしょうか?」
宮良くんの問いに、私はうなずく。老人との会話を終え、私は宮良くんに島を案内して貰っていた。
「私が思うに、この島の習俗はかなり特殊なのではないだろうか。老人から聞いた内容を踏まえると、この島の周りにある島々、宮古島や石垣島の祭りの影響も受けていると言えるし、『節分祭』という考え方自体は本州の考え方だと言える。この祭りがいったいいつ、どのようにして始まったのか、非常に興味ぶかいところだよ」
「宮古島と石垣島の影響といいますと、アカマタなどの来訪神やパーントゥなどでしょうか?」
「そうだねえ、アカマタ、クロマタ、シロマタといえば西表島に訪れる来訪神だけれど、異形の面を被り村々を回るというのは共通しているね。石垣島にもマユンガナスと呼ばれるニライカナイからやってくる神がいて、面は被っていないけれど大きな杖を持っている。宮古島のパーントゥは仮面を被って泥を塗り、シイノキカズラを体中に巻き付けて化けるのだから、ムントゥと瓜二つと言っていいんじゃないだろうか。家や通行人に泥を付けて「役祓い」とするのも、共通していると言えるね。ただ一つ異質なのが、“鬼”という存在の扱いなんだ」

我々は、祭りで鬼を招き入れる御嶽に到着した。御嶽の側には、巨大な岩がその存在感を示している。おそらくその岩は、数百年前にこの一帯を襲った「明和の大津波」で島の中心部まで打ち上げられたのだろう。「明和の大津波」では、この周辺の島々のほとんどは、津波に飲み込まれ、当時大勢の被害者が出たというのは、琉球の歴史の中の一頁である。
岩は風化し、崩れ落ちるかのような部分もあるものの、その大きさから見れば微々たる物で、碁石状の形の上に、座した鬼の姿を容易に想像させるような神々しさも持ち合わせていた。ムークイではこの岩と御嶽の周りを島民で囲み、舞いや餅を捧げるのだろう。

その岩を眺めながらも、私と宮良くんは会話を続ける。
「確か、沖縄には鬼を神として崇める習俗は無いんでしたね」
「そうなんだ。沖縄に、というよりも日本全部を見渡してみてもほとんど無いからね。昔から日本人にとって“鬼”という存在は、忌み嫌う存在だというのが定説なんだ。沖縄でも鬼にまつわる民話は残されているものの、神として崇めるどころか、神の使いとしてもその存在はないし、逆に人を食う恐ろしい存在として伝えられているからね。今でも本島に慣習として残っている“ムーチー(鬼餅)”の逸話がそうだよ」
「そういえばムーチーとの共通項もムークイにはありますね。“鬼”と“餅”の組み合わせで、供える餅も月桃の葉で蒸していますし」
「そう、この島は近隣の宮古、八重山地方どころか、沖縄本島の習俗をも影響として受けているんだ。そこがやはり私には異質に思えるんだよ」
「僕は幼い頃からこの祭りを見て育ったもので、特異性にはなかなか気付かなかったのですが、先生の講義で沖縄には節分祭が無いと知り、興味を持ったのです。ちょうど祖父からの頼みでもあったので、思い切って今年の祭りに参加することにしたものの、いざ参加するとなるとなかなか難しいものですね」
「宮良くんは確かムントゥとして参加するんだったね。ムントゥはこの祭りの重要な役割を担っているわけだから、有意義なことだと思うよ」
「そうですね、これまで簡単ながらも指導を受けましたし、本番は明日ですから、良い経験だと思って楽しみたいものです」

御嶽と大岩を後にした我々は、ニライカナイへと続くと伝えられている南東の浜へと向かった。しかしそこで私は、残念な光景を目の当たりにしたのだった。それは、一人の民俗学者として、決して容認できぬような光景だった。

テーマ:エッセイ - ジャンル:小説・文学


『戦場の挽歌 ~荒野の二人~』   (2006/12/04)
「司令、ご報告します」
「ん、何事だ?」
「はっ。我が部隊の西に展開する部隊が撤退を始めました。これにより、既に後退し始めている東の部隊と共に、かなり押し込まれ、我が部隊だけ孤立してしまう可能性が出てきました」
「そうか…」
「司令、どうされるおつもりなのですか? 我が部隊も同じく後退した方が良いのでは…?」
「うむ…」
「司令、こうしている間にも、敵の侵攻は進むばかりです。周りをご覧下さい、暫く前までは周りに多くの味方の部隊が居たというのに、今では我が部隊しか居ないではないですか。孤立してしまうのも時間の問題です」
「孤立…か。怖いのか? 孤立が…」
「はっ、昨晩の戦闘でも、多くの犠牲を出しました。このまま孤立してしまっては、全滅してしまう可能性が高いのでは…」
「私は怖いのか、と聞いたのだ。孤立は怖いのか?」
「はっ、恐れながら申し上げますと…。私は孤立を恐れております。もちろん、もちろん戦場で恐れを抱くということは敗北を意味することだと分かっております。分かっておりますがしかし…やはり怖いのです。恐ろしいのです…」
「そうか…。恐ろしいか…。その気持ち、分からぬでもない」
「司令、では我が部隊も撤退するのですか?」
「撤退、か…。確かにここで撤退するのも賢明な判断やもしれん。無駄な戦いを避け、潔く負けを認めるのもある意味正しいのやもしれん。しかしな、私は思うのだ。負け戦と分かっても、微かな望みに託し、精一杯もがくのも、一つの答えではないかとな」
「司令…。しかし、しかしもはや我が部隊が持ちこたえたところで、戦局は何も変わらないのではないですか! 最前線で残っているのは我が部隊のみなのです!」
「ふっ」
「何がおかしいのですか、司令! 私はこの部隊のためを思って申し上げているのです」
「いや、なに。ものは考えようだと思ってな。私は今のこのような機会を待っていたかもしれん」
「…といいますと?」
「何もせずに撤退したのでは何の意味も無いではないか。これまでの歴史を振り返ってみろ。敗者は必然的に歴史からは消え去っている。唯一歴史に名を残しているのは、負け戦の中で最後まで戦い、そして華々しく散っていった者達ではないのか? 古代ローマのカエサル、スペインのフランコ将軍、そしてレッドリボン軍のブルー将軍。見よ、皆後生にまで名を残しているではないか」
「確かに、そうです…。し、しかし」
「私はな、司令官という位になった時に心に決めていたのだ。必ず歴史に名を残して見せる、と。もちろん、華々しい戦績で名を残せた方が良かったに決まっている。しかしそれは無理だった。だからこそ、今この機会を逃したくは無いのだ。私は、その為であれば自らが犠牲になることは恐れぬ」
「司令…。しかしだからといって、我が部隊全てを犠牲にしても良いというのですか? それではあまりにも他の者達が報われません…」
「そうだろうな…。だから私は無理に残れとは言わん。私の意志に共感した者だけが残れば良いと思っている。もちろん、その結果私一人になったとしても、それはそれで構わんのだ」
「司令、そこまで覚悟なさっているのですね…。わかりました。それでは私は他の皆にこのことを伝えに向かいます」
「うむ、頼んだぞ」
「司令…。何故我が国はこのようなことになったのでしょうか…? こんな屈辱的な敗戦を迎えなければ成らなかったのでしょうか?」
「……。それは、必然だ、今までの行いを顧みると、な…。我々はあまりにも無茶をやり過ぎた。その先のことを全く考えず、国中を無駄な思想、無駄な主張で染めていったのだ。この報いは、必然なのだよ。そうは思わんかね?」
「確かに、確かにそうでした。しかし、途中で過ちに気付き、正しい方向へ向かおうとしていたではないですか! あの努力は、あの血の滲むような努力は、報われないのですか?」
「何事も遅すぎたのだ。あのような施策は、結局は一時的な活性化にしかならん。所詮気休めでしかなかったのだ」
「……」
「さぁ、皆に伝えて来るのだ。意志無き者は去れ、とな…」
「…わかりました」
「うむ、それで良い」
「司令…、もし我々が抵抗を続けたとして、果たしてそれは国にとって意義を見出してくれるのでしょうか? それとも過去の施策と同じく、単なる気休めになってしまうのでしょうか?」
「それは私にもわからん。しかしこれだけは言える。我々の子孫達は、我々を誇りに思うだろう。そして我々も、最後まで誇り高く、生き抜き、生え抜けることができるのだ」
「わかりました…。私も、最後までお供します。例え、司令と私だけになろうとも…」
「そうか…。すまんな…」
「では、皆の所へ向かいますので、これで」
「ああ、頼んだ」
「はっ」
「……。認めたくないものだな……、若さ故の過ちというものを…。そしてこの、不毛なる戦いでしか見いだせぬ、自分自身の存在意義を……」

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『ボイサー養成マニュアル』   (2006/10/04)
前書き

ボイサー(Voicer:“Voice”&“er”の造語)とは、日本政府が考え出し普及させた在宅ワークのことである。
本書では、そのボイサーについての理解を深めると共に、優れたボイサーとなるための基礎知識を得ることを目的とした、簡易版のボイサー養成マニュアルである。
本書を手にし、一人でも多くのボイサー志望者が、優れたボイサーへと成長していく事を、私は願っている。



目次


1-ボイサーの誕生とその背景
2-ボイサーの役割と仕組み
3-ボイサーの意義




1-ボイサーの誕生とその背景


20××年6月、厚生労働省と経済産業省の特別編成チームが「ボイサー」と呼ばれる政府主導の在宅ワークを発表した。その画期的で独創的なワークスタイルは、すぐさま反響を呼び、日本全国に広がっていった。

その当時、日本は深刻な問題を抱えていた。団塊世代に定年の波が押し寄せた事により、2005年から徐々に進行し始めた就労人口の減少は、被保護の立場である年金受給者など高齢層の増加と合わさり、就労者一人一人への負担度、依存度の高まりを招いてしまった。

結果、企業側は減少する就労者を少しでも効率的に就労させようと、機械化、オートメーション化を推進し、それにより人的パワーの供給先がよりコア業務へと変革と遂げていった。

そのような中で、定年を迎えたものの体力がまだ有り余っている、つまり就労の意志を持つ定年退職者が年々増加していった。しかしながら、コア業務をこなすだけのスキルが無いため、再就職の機会は減少し、多くの定年失業者(定年退職後に再就職を希望するも就職先が無い高齢者のこと)を生み出す結果となった。

この歪み始めた社会構造を改革するために組織されたのが、先述の特別編成チームであり、研究の結果生み出されたのが、「ボイサー」だったのである。




2-ボイサーの役割と仕組み


ボイサーとは、機械化・オートメーション化の走りであった自動音声部分を、全て人間の手による手動化、つまり「退化」させることによって、半ば強制的に労働需要を創出する役割を持っているといえる。

自動音声部分の例としては、最もオーソドックスかつ身近なものとして「自動電話応対機能」が挙げられる。電話番号間違いにおける「お掛けになった電話番号は現在使われておりません」や、混線時の「只今回線が混み合っており大変繋がりにくくなっております」といったNTTアナウンスはもちろん、予約回線の自動音声や、留守番電話アナウンスなどが手動化されていった。その他、カーナビや家電製品の音声お知らせ部分や、駅やバスなど輸送機関でのアナウンスなど、多くの分野で「退化」が行われ、それに合わせて労働力の需要も生み出されていった。

ボイサーの資格を取った有資格者は、政府より認定を受け在宅ワークを行うことになる。その際、業務に必要な機材一式は無料で社団法人ボイサー推進協会(VA:Voicer Assosiation)よりリースされ、その機材を使用して業務をこなす。

ボイサーワークツール(通称:VWT)と呼ばれているこの機材一式は、最新鋭の技術が用いられており、モバイルIPフォンとブロードバンドを活用したリアルタイムな映像の受信システム(通称:ボイサーライブ!)、そしてエリアごとに管理されるコントロールシステム(VICC:Voicer Intensive Control Center:ボイサー集中管理センター)の組み合わせによって構成されている。

このことによって、自宅にいながら受け持ち場所のリアルタイムな状況を把握し、その状況に応じてVICCより指示を受け、その指示通りに、時にはタイムリーな対応も行いながら自らの「声」を使って発声することが可能となり、それこそがボイサーの業務内容である。

ボイサーには階級制度があり、経験を積み試験にパスをすれば階級が上がり、より難度の高い業務を任されることとなり、もちろんその階級に応じて報酬も増減する。

そのボイサーへの報酬は、政府と日本経団連が主導するボイサー推進協会(VA)より支払われ、その供給源となっているのは、年々高まりつつあった「企業の社会的責任(CSR:Corporate Social Responsibility)」 の観点から多くの企業が出資するボイサー基金である。その基金に出資することにより、企業は「経済や社会への貢献」という顧客や消費者に対するブランディングが可能となる仕組みとなっている。

こうした複雑な利害関係と日本政府の特別編成チームの尽力によってボイサーは生み出され、そして現在では法律によってボイサーは社会的に保障されるようになった。




3-ボイサーの意義


労働需要の創出を目的とした政策として、アメリカのケインズ政策が挙げられる。政府が積極的に歳出を行うことで労働需要を高め、労働市場の不均衡を解決しようとするその姿勢は、まさにボイサーにも通じる部分が多いと言える。ただ、ケインズ政策との大きな違いとして、政府だけではなく企業からの出資があるという部分であり、時代のニーズに応えた画期的な政策であることはいうまでもない。

ボイサーの誕生と成長は、当初の目的であった「高齢層の失業問題」の解消だけでなく、社会問題化していた「ニート(Not in Education, Employment or Training:略称NEET)」と呼ばれる若年無業者への対策といった面でも効果を現している。家にいながらにして、そこまで特別な知識も必要とせず、好きな時間に働けるというワークスタイルのフレキシブル性が反響を呼び、ニートの更正といった面で注目を集め、実際にこれまでに多くのニートが社会へと巣立つステップアップとしてボイサーを活用しているという報告もある。

こうして、今やボイサーは日本に無くてはならない存在となり、無業者・失業者が減り国民全体の所得が上がることで市場は活性化され、経済サイクルの潤滑油としての役割も果たすようになったのである。



終わりに

ボイサーは日本経済を活性化させ、多くの人々に労働の機会を与えている。今日では多くの人々がボイサーになるため学んでいると聞く。職業というものは時代によって変遷していくとは言うが、正直ボイサーが誕生した当初に、これだけ成長し、かつ重要な存在になるとは誰が考えられただろうか。

この本を手に取り、ここまで読了していただいた読者の方には、ボイサーの素晴らしさを伝えられたと思うが、その意識を失わずに立派なボイサーとなり、日本のため、社会のため、そしてもちろん自分自身のために、働き続けてくれることを願いながら、このマニュアルを終えることとしたい。





「ボイサー養成学校」の新任講師イトウは、明日の授業に備えマニュアルを再読し、パタンと本を閉じた。若干の目の疲れを心地よく感じながら、明日の授業について思いを馳せる。
彼が持つクラスは生徒数こそ少ないものの、ニートに元ヤン、老人など個性豊かな生徒達がおり、まとめるのに苦労しながらも、イトウはそれなりに充実感を得ていた。
明日はいよいよ実践練習が始まる。その光景を頭に思い浮かべながら、イトウはベッドに横になり、瞳を閉じて意識を遠のけた。




今回の作品は如何だったでしょうか。
新任講師イトウの授業風景をご覧になりたい方は、2006年10月15日(日)、新宿ゴールデン街劇場で行われる、劇団YAX直線の番外公演『原則一乃巻』にお越し下さい。
当日、個性豊かな生徒達と共に、イトウの奮闘ぶりを伺えるかと思います。



テーマ:これからの日本 - ジャンル:政治・経済


シンデタマルカ!   (2006/08/04)
 乗客約五百人を乗せた航空機が、上空でトラブルに巻き込まれた。突然の機体の揺れに乗客は驚き、そして恐怖に包まれた。始めの内は、動揺した乗客を必死に落ち着かせようとしていたスチュワーデス達も、このトラブルがただ事で無いことに気付いた後は、床にへなへなと座り込む者もいた。すると、機長からの機内アナウンスが流れた。

「みなさ~ん! この飛行機は落ちますヨ、ひひひっ。上空一万メートルからマッサカサマ! 誰も助からない、み~んな死んじゃいますヨ~! ひひひっ」

 機長は既に頭の回路が吹っ飛んでいた。一番先に機体の状況を知るのは機長であり、一番先に死ぬという現実を突きつけられるのも機長である。並の人間にこの状況が耐えられるわけがない。

 その機長からのアナウンスで、機内はますます騒然となった。そもそもトラブルが解消したとしても、機長があの状態では助かるわけがない。機内には絶望感だけが漂っていた。品の良い紳士は頭を掻きむしって歯ぎしりをし、金髪でタトゥーの入った若者は、歯をガクガクさせながら身体を震わせていた。スチュワーデスも座り込みヒステリックに泣き叫んだ。何も知らない赤ん坊でさえも周りの状況に驚いて大声で泣きだした。しかし、その赤ん坊をなだめるはずの母親はショックで既に気絶していて、失禁したのか座席からは水のようなものが流れだしていた。

 老夫婦は二人して手を合わせ、今更効果のあるわけがないお経を延々と唱え続けた。手帳に熱心に何かを書き殴っている者もいた。その行為が無意味だとも気付かずに。気の狂った者ももちろん居て、意味不明な言葉を喚き散らしていた。その方がある意味幸せなのかもしれない。死の恐怖を感じずにすむのだから。

 若いカップルは、手を握りしめて二人して目を瞑っている。新婚夫婦は抱きしめ合い、死ぬ時は一緒だよ、などとヌカシテイル! 死んだ後に、二人一緒に地獄にでも行くというのか。

 血気盛んな若者二人が、近くの席の女性に襲いかかった。死ぬならいっそ女を犯してやる、目には狂気が滲み出ている。襲われた女性は悲鳴をあげながら助けを求め、必死に逃げようと試みる。しかし周りの客は知らん顔。この状態でヒトダスケして何になるというのだ。

 

 正に機内は阿鼻叫喚、生き地獄と化していた。そして機体は、小刻みに揺れながら徐々に失速していった。機内で流れる一秒一秒は、乗客にとってひたすら長く感じられた。そしてその時がいつまでも続くかのようだった。

…その時である。今までずっと目を閉じて微動だにしなかったサラリーマンが立ち上がり、機内中に響き渡るような大声で叫んだ。

「死んでたまるかっ!」

 機内中の人間が、ビクっとしてその男に注目した。そして男は再び叫んだ。

「死んでたまるかっ!」

 単身赴任からの数年ぶりの帰宅、浮かぶのは妻の顔…、今夜をどれだけ待ち侘びたことか…。

「し、死んでたまるかっ!」

 男に触発され、今度は中年の男性が叫んだ。翌日は娘の結婚式。二十年以上も苦労して育ててきた、娘としての最後の夜、その娘の部屋を天井から覗けないとは。この性癖を引きずって生きてきた意味が無くなるじゃないか…。

「死んでたまるかっっ!」

 続いてサングラスに柄シャツという、バカンス帰りのような格好の男性が叫んだ。何年もかけて計画し実行した、クダラナイ妻の保険金殺人。誰にも気付かれない完全犯罪をやり遂げたというのに。この金を使いまくらないまま死ねねぇよ…。あの世で妻が、不敵な笑みで待っている。

「死んでたまるかぁ!」

 制服を着けた、男子学生が叫んだ。ノート一杯に書き綴った、クラスメイトの娘への鬱屈した愛の賛歌、自宅のパソコンに貯め込んだアダルト画像、近所で盗んでは机の引き出しの奥に貯め込んだ、女性用下着。あんなものを残したままでは、死んでも死にきれない…。

「死んで…たまるか…」

 中学生くらいの女の子が呟いた。一人もカレシを作らないまま死ぬなんて、エンコーのオヤジ以外に男を知らないなんて、女として悲しすぎます…。

「死んでたまるくゎぁっっ!」

 入れ歯を吐き出しながら、金持ちそうな老人が叫んだ。せっかく手にした若くグラマラスな嫁。これまでの苦労を忘れてバイアグラ生活を楽しもうとした矢先というのに。死んでもこの嫁の肉体はワシのもんじゃ~っ!

「死んでたまるか~~!!」

 老人の隣の嫁が、前に突き出た胸を揺らしながら立ち上がり絶叫した。アタシのこの身体で手に入れたカネモチノオクサンと言う地位。隣のエロオヤジが死ぬのを待って、遺産で若い男を買い漁ろうとしていたのに、ここで死んだらアタシはただの笑い者じゃない! ザケンジャナイワヨ!

「死んでたまるか!」

 メガネをかけたイカニモという感じのアニメオタクが叫んだ。今夜はずっと見続けてきたアニメの最終回、ヒロインの×××ちゃんのサイゴノユウシを見ないまま死にたくない…。×××ちゃん萌え~~!

「死んでたまるか!」「死んでたまるかっ!」「死んでたまるかっっ!!」「死んでたまるくゎぁっっ!」

 乗客たちは立ち上がり、皆叫んだ。いつの間にか全員で「シンデタマルカ!」の大合唱になっていた。皆狂ったように叫び続けた。そして次の瞬間、機体は急激に失速し、マッサカサマに下へ下へと落ちていった……。

 

 ソシテ、クソヤロウドモハ、ジゴクヘオチタノデス。



新作で「窓際族の憂鬱」というものを書いていたのですが、間に合わずに数年前に書いた作品を掲載させていただきました。
もしこの週末で書き終えられれば、14日に差し替えさせていただきます。

この作品は如何でしたでしょうか? まだ死にたくない方は↓をクリック!




四畳半の情熱   (2006/06/04)
「あぁ…、超能力があったらなぁ…」
四畳半の部屋の中、白黒のテレビでユリ・ゲラーの特別番組を見ながら、つい愚痴ってしまう。
外は既に暖かな季節となっているというのに、出しっぱなしで湿っぽいコタツの周りでいびきをかいている仲間達に目を向け、一つ溜め息をついた。狭っ苦しい部屋の中に大の男が4人も居れば、足の踏み場など無い。
コタツの上で空になった日本酒の一升瓶を眺めていると、学生運動、所謂安保闘争のニュースに燃えていたのが嘘のように思えてくる。安田講堂は数年前に落ち、沖縄は返還され、有り余る力はその標的を失い、日々を堕落させていった。
革命だなんだと熱中し、先駆者達に続けと意気込んで進学した大学には、既にその狂乱と熱狂は無く、反体制の同士となるはずだった仲間達、コタツの周りで酔っぱらって寝ているヤツラは、ひたすら酒と、まだ少しだけ反体制の香りを残していたフォークに傾倒していったのだ。
オレは、テレビの横で少し埃っぽくなっているフォークギターを手に取り、最近出たばかりのウィークエンドの新曲を奏で、口ずさんだ。

「あなたがいつか話してくれた 岬を僕はたずねて来た
二人で行くと約束したが いまではそれもかなわないこと…」


ちょうどサビを唄うところに差し掛かったところで、部屋の奥で寝ていたSが目を覚ました。
「なんだ、起きてたのか」
「あぁ…。起こしてすまん」
Sは、ボサボサになった髪を更にボサボサに掻き上げながら、上体を起こしてオレの方を向いた。
「『岬めぐり』か。良い歌だな…」
「あぁ。何だかこの曲を聴くと、切なくなるんだよな。曲調は“かぐや姫”なんかと違って暗くないのにさ」
「その気持ち、分かる気がするよ、オレにも」

Sに急かされ、オレは歌の続きを奏でる。その音色に合わせて、オレとSはサビを唄う。

「岬めぐりのバスが走る 窓に広がる青い海よ
悲しみ深く胸に沈めたら この旅終えて街に帰ろう」


歌い終えて、オレもSも、互いに微妙な笑顔を浮かべ、無言で見つめ合った。オレはギターを元の場所に戻し、天井を見上げながら煙草に火を付けた。煙を天井のシミに向かい吹きかける。灰が床に落ち、慌てて傍らのトイレットペーパーで拾い上げようとしたオレの手を、Sが制した。
「止めとけ、紙は高騰するんだから」
「そうだったな、すまん…」
前年から始まっていたオイルショックは収まる気配が無く、遂には生活必需品である紙まで高騰するのだと、街中で噂されていた。「節約は美徳」なんて言葉が、合い言葉になっていた。

「まるで戦時中みたいだよな…」
Sは灰皿から煙草を拾い上げ、シケモクをしながら苦笑いを浮かべていた。
「『欲しがりません、勝つまでは』、か…」
「結局その戦争に負けて、今の日本がある、と」
「今更節約なんて始めたところで、何になるんだか」
オレは最後の一息を天井に吐いて、煙草を消した。いつの間にかテレビはニュース番組に変わっていて、数ヶ月前にフィリピンから戻ってきていた小野田少尉の近況が映し出されていた。その表情は、この数ヶ月でかなり変わっていた。発見された当初の厳しさと鋭さは、和やかな笑顔へと置き換わった。戦争から平和へ、その変化こそが日本人を甘くしているに違いない。だからこそ闘争が必要なのだ。

こうして何ごともなく日々を過ごすのにも、もう飽きた。思い描いていた学生生活とは余りにもかけ離れている。生まれてくるのがあと数年早ければ、あの日本中の若者を巻き込んだ狂乱の中に居る事が出来たのに、と考えてしまうと親を呪いたくなる。そうしてその想いがまた、何もない日々をますます色褪せて映し出しているに違いない。

「なぁ?」と、Sが突然オレに尋ねてきた。
「このまま生きてて、楽しいのかな…?」

Sはオレなどと違い、明確な思想を持って闘争に参加しようとしていた。大学で出会った当初のSは、いつでもその思想を熱く語り、そんな時のSの表情は、まるでフィリピンの山中から出てきたばかりで、鋭かった頃の小野田少尉のようだった。しかし今のSの表情には、残念ながらその鋭さは無い。
Sは良く「入る大学を間違えた」とオレに愚痴っていた。確かにうちの大学は、他に比べるとあまりにすんなりと平和慣れしてしまったように思える。数年前の先輩達の行動など、誰の記憶にも残っていないのでは無いだろうか。それほど、大学自体が安穏とした雰囲気に包まれていた。そしてそんな雰囲気に残念ながら飲み込まれてしまったのが、オレでありSであった。

「なぁ、どうなんだろう?」と、Sは再度聞いてきた。オレはSの目を真剣に見つめ直し、答えた。
「このまま生きてりゃ、そりゃつまらないだろうな」
「そう思うか?」
「あぁ、そう思う。今のオレ達は、情熱の行き場を失っているんだよ。そんなんじゃ、楽しいわけがない」
「そうか…。じゃあどうすりゃいい? 情熱は、オレ達にまだ残っているのか?」
Sの問いかけに、オレは考える。情熱は、オレ達にまだ残っているのだろうか? まだコタツで眠り込んでいる二人は? オレは? そしてSは? 情熱は、果たしてオレ達にまだ残っているのだろうか? オレは、それをはっきりさせなければならないと悟った。それこそが、今後生きていく上で重要な事だと悟った。情熱がまだあるのなら動くしかないし、もう無いのならそのことを自覚して生きていかなければならない。とにかく、明らかにしたかったのだ。

「バリ封、やろう」と、オレは一言、自分でも予想外の言葉を発した。もちろん、Sは驚きながらオレの方を見ている。「バリ封、やろう」と、オレはもう一度言った。自分自身にも言い聞かせるように。



バリケード封鎖を敢行し、大学の講堂を占拠したオレ達は、一時の興奮が既に冷め、意地だけで占拠を続行していた。そもそも掲げる思想を準備していなかったバリ封は、さほど大学側に影響を与えられることなく、数日後には潰された。オレ達は全員逮捕されたが、革マル派でも中核派でも何でもなく、セクトに属さないオレ達に構っている程警察は暇でないのか、さっさと釈放された。大学は退学になった。そしてオレ達は、それっきりバラバラになった。

それから暫く経って、オレの四畳半の部屋に、Sがふらりとやって来た。まだ出されたままのコタツを眺め、「相変わらずだな」と苦笑いしたSは、ギターを手に取り、井上陽水の『心もよう』を奏でた。その音色に合わせて、オレとSはサビを唄った。

「さみしさだけを手紙につめて ふるさとに住むあなたに送る
あなたにとって見飽きた文字が 季節の中で埋もれてしまう」


歌い終えたオレ達は、互いに無言になった。点けっぱなしになっていたテレビが、ワールドカップの決勝戦の模様を伝えていた。“ドイツの皇帝”ベッケンバウアー率いる西ドイツが、“空飛ぶオランダ人”クライフ率いるオランダを下し、見事優勝に輝いたのだ。オレはそのニュースを見て、バリ封を決意したあの日の事を思い出していた。オレはあの日、ユリ・ゲラーの番組を見て、超能力を欲した。その超能力でオレは、ワールドカップを見たいと願ったのだった。元サッカー部だった兄から聞いただけの、断片的な情報の中でも、ワールドカップは実に魅力的に思えたのだ。

「見たかったな、ワールドカップ…」
オレがそういうと、Sが意外そうな顔をした。
「ワールドカップ? サッカーか。釜本ぐらいしか知らないな」
「ワールドカップ、凄いらしいぞ。世界中が母国を応援して熱狂するらしい」
「国を挙げて熱狂か。正にナショナリズムだな」
「そんな意識、今の日本には無いよな…。でもオレは思うんだよ。そのサッカーに傾ける情熱があれば、学生運動なんてそれほど酷くならなかったんじゃないかって」
「まぁ、少なくともオレ達はバリ封なんてしなくて済んだよな」
オレとSは、顔を見合わせて笑った。
Sは、暫く部屋に居て、帰っていった。帰り際に、地元へ帰る事を告げられた。「どんな顔して帰ればいいんだか…」と冗談とも取れるような口振りで話したSは、「でも後悔はしてないよ」と言い、笑いながら去っていった。そしてその後二度と、会う事はなかった。


オレはと言うと、その後とある出版社に潜り込んだ後、フリーのライターとして活躍するようになった。世紀の決戦と評された、1974年ワールドカップ西ドイツ大会の決勝を見逃してしまった悔しさからなのか、サッカーというスポーツと、そのスポーツが持つ熱狂と狂乱に惹かれるようになり、仕事もその関係の執筆が多くなっていった。
そして32年後の2006年、日本に3度目の熱狂と狂乱が、すぐそこまで迫っている。愛国心溢れる若者達は、サポーターとして今回も熱い声援を送る事だろう。オレ達の時代には無かった、4年に一度の、情熱のはけ口として。



今回の作品、如何でしたでしょうか?
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テーマ:ショート・ストーリー - ジャンル:小説・文学


Hard Luck Japanese Man   (2006/04/04)
             -1-

 どうしてこんなことになっちゃったんだろう。パニックになってグルグルぐるぐる回る頭の中で思い出してみる。そう、あの日ボクは秋葉原でアイツに会ったんだ。そして全てが始まった…。
 

 秋葉原の某楽器店で、ボクが暇つぶしにギターの試奏をしていると、後ろからいきなり外人に話しかけられた。
「ハーイ!」
 陽気な声に驚いて後ろを振り向いてみると、声とは対照的に何やら陰のあるやつれた外人がそこに居た。
 ボクは自慢じゃないけど、留学経験もあって英語には堪能だ。だから外人相手にも物怖じなんてしない。「何か用かい?」とボクは英語で返事をした。
 ボクが流暢な英語で返事をしたもんだから、その外人は驚いて、そして何故か笑顔になりこう言ったんだ。

「実はキミに折り入って相談があるんだ。いきなりこんなこと言うのもなんだけど、一緒に来て話を聞いてくれないかい?」
 そりゃボクだってその外人を疑ったよ。でも、何だかすごく困ってるみたいだったし、何より不思議と気があったっていうのかな。だからボクは思い切って話だけでも聞きに行くことにしたんだ。

 ボクが連れて行かれた場所は、楽器店から10分ほど歩いたホテルだった。その部屋の中でボクは、驚くべきことを依頼されたんだ。

 その外人の名前はマークといった。マークはギタリストで、トーキョーにもツアーで来たらしい。ボクがマークにお願いされたこと、何だと思う? びっくりしたよ、だって「オレの代わりにライブでギターを弾いてくれないか?」って言われたんだから。
 それまで気付かなかったけど、マークは左手に怪我をしているみたいだった。包帯を巻いていて、それをポケットに突っ込んで隠してるんだ。そう、マークはその怪我のせいで、ギターを弾くことが出来なくなってしまったらしい。

「キミがギターを弾いているのを偶然見てね、なんて良いギターを弾くんだって思ったんだ。それでキミこそオレの代役に相応しいと思ってね。突然だけど話しかけたんだよ。それに英語まで話せるなんて。パーフェクトさ」
 他人に褒められて悪い気なんてしない。ボクは少し嬉しくなって、気をよくしながらマークに尋ねた。
「で、ボクは何をすればいいんだい?」

「キミ、KISSってバンドを知ってるだろう? キミにはそのライブでギターを弾いて欲しいんだ」
「KISSだって!?」
 あまりのことに、ボクは驚きを隠せなかった。


             -2-

「KISSって…、あのKISSかい?」
「そう、あのKISSさ」
「確かにKISSは今ツアーで日本に来てるけど…。あ、来日を記念したKISSのコピーバンドとか?」
「いや、本物のKISSだよ。キミは武道館でギターを弾くんだ。あのKISSのメンバーとしてね」
 マークはニヤリと笑った。けれどボクには何が何だかわからなかった。だって、ボクがあのKISSの中で演奏するなんて考えられるかい?

「馬鹿げてるよ! それにそんなの無理さ。だってボクはただの一般人だよ? しかも日本人だ。第一、ボクはKISSのことそんなに知らないんだよ?」
「大丈夫さ、キミの腕があればプレイは全く問題はない。曲はオレが責任持ってみっちり教えるさ。だから演奏に関しては何の問題もないんだ。あとはキミにやる気があるかどうかさ」
「でも…。やっぱりボクなんかには無理だよ…。あまりに突然過ぎるし。他の人を当たってくれないか。プロミュージシャンなんて探せばいくらでもいるじゃないか」
「どうしてだい? キミだって、いつかは武道館のような大きな舞台で思いっきりギターを弾きたいと夢見てるだろ? その夢が叶うんだ、素晴らしいじゃないか!」
マークはどうしてもボクにこだわるみたいだ。そこがボクにはどうしても気に掛かる。
「ねぇ、どうしてボクなんだい? ボクよりギターの上手い人なんて探せばいくらでも居るだろう? そりゃ英語は喋る自信あるけれど…」

 するとマークは何故かボクの目の前に立って、いきなりボクの両肩を掴んで、力強くこう言ったんだ。
「キミにしか頼めないんだよ」
 そして続けて、今度は囁くようにボクに言った。
「今その理由は言えない。もしキミが引き受けるんだったら話せるけどね。これは極秘事項なんだよ。もしキミが引き受ければ、日本人で知っているのはキミだけってことになるね」

 このマークの囁きは、ボクの頭の中をグルグルと駆け回って、きっとボクを何かに酔わせたんだ。日本人でボク一人だけ…。夢の武道館でのライブ…。そして何より、KISSがボクを必要としてくれている…。何だか夢の中に居るような心持ちだったんだ。
 気付いたらボクはマークに引き受けることを承諾していたよ。マークの嬉しそうな顔ったらなかったね。

 こうしてボクは、一週間後の武道館ライブに向けて厳しい練習をこなすことになったんだ。
 でもおかしいな、KISSにマークなんて名前のギタリスト居たっけ…?


             -3-

 ライブまでの一週間、ボクはマークとマンツーマンで練習に明け暮れていたよ。何しろやることは山程あったんだ。始めボクは曲さえ覚えてしまえば何とかなると思っていたし、それならまぁ3日もあれば大丈夫なんじゃないかなって思ってた。けどそれは大きな間違いだったんだ。そう、KISSはただのロックバンドじゃなかったんだよ。

 ボクはKISSのCDを聴くよりもよりも映像を見ることに重点を置いて練習させられた。マークは「曲と思って覚えるよりも、ショウだと思って覚えてくれ。それが一番早いんだ」とボクに言っていて、数日でギタープレイをある程度仕上げた後は動きの練習ばかりさせられたんだ。「ここではこう動いてソロを弾いて、この曲はステージ中央のマイクでコーラスするんだ。そしてここでは…」ってこんな風に、まるでお芝居でもするかのように、一つ一つの動きが完璧に決まっていて、ボクはギターを演奏しているというよりも、ギタリストを演じているように感じるようになっていったんだ。

 こうして一週間の厳しい特訓を終え、いよいよ武道館でリハーサルをすることになった。ここでようやくKISSの他のメンバーに会えるはずだ。何せボクはこの一週間、マーク以外の誰にも会っていないんだからね。
 マークが「武道館に向かおうか」って言ってくれるまで、ボクの心のどこかにはまだマークのことを完全に信じ切れない部分があったんだと思う。だから武道館に行く時は嬉しかったよ。でもね、ここで一番重要で、一番信じられない話を聞かされることになるんだ。

 武道館に向かう車の中で、マークはボクの方を向き、真剣な面持ちでこう言った。
「シンジ、これまでの特訓をよく頑張ったな。やはりオレの目に狂いは無かった、キミは最高の代役さ」
「なんだいマーク、いきなり改まって。ボクが頑張れたのもマークの指導のお陰じゃないか」
「シンジ、今から話すことをよく聞いてくれ。極秘事項を話すから…」
 ボクは遂に来たかと思って黙って頷いた。
「今日シンジはシンジでは無く全く別の人間として演奏してもらう。オレが身振り手振りからコーラスの仕方まで細かく指示していたのはその為さ」
「というと…ボクはマークに成りすますってことかい?」
「いや、キミが成りすますのはエースの代役を務めるトミー・セイヤーさ!」
「トミー・セイヤー!?」
「キミは今日から三代目トミー・セイヤーになるんだ!」


             -4-

 マークが初めてトミーの代わりにステージに立ったのは、数年も前のことらしい。親友だったトミーがKISSのギターを弾くことになった時、最も応援していたのがマークだった。しかしある時、トミーは心労からステージに立つことが苦痛になっていって、遂には耐えられなくなってしまったんだ。そしてそのことを唯一相談したのが、一番信頼していたマークだったんだ。「このままではトミーは心労で精神的にも身体的にもダメになってしまう」、そう考えたマークは一計を案じることにした。そう、それはマークが何喰わぬ顔でトミーになりきり、ステージに立つというものだったんだ。こうしてこれまでの数年間、二人は代わる代わるにステージに上がった。観客にも、メンバーにも、誰にも気付かれずに…。

 そんなマークとトミーの関係だったんだけど、負担が大きいツアーはもっぱらマークの担当だった。しかし今回、マークは日本で手に怪我を負ってしまった。ギタリストの命とも言うべき指をね。
 もしもここがアメリカだったら、すぐにトミーと入れ替わっただろうけど、日本じゃどうしようもない。怪我のことをメンバーに話せば病院に連れて行かれ、正体がばれてしまう。そこでマークは考え抜いた末に自分の代役を立てることに決め、ボクに白羽の矢を立てたってことだったんだ。

 確かに凄い秘密だ。この話を聞いてボクはビックリしたよ。考えてみるとマークと会ってからというものずっと驚いてばかりだ。そしてそれと同時に、自分の責任の大きさに唖然としてしまったんだ。だって、お客さんにはまだしも、他のメンバーにだって正体は秘密なんだから…。
 それでももうボクは後戻り出来ない。この秘密を知ってしまった以上、ボクは三代目として自分の役割を果たさなければいけないんだ。ボクの心には、既に強い使命感で溢れていた。そうさ、ボクはやってやる…。
 
 
リハというのにメイクをしてきたボクに、ジーンが愉快そうに話しかけてきた。
「ヘイトミー、どうしたんだ? もうメイクしちゃって。キアイ入ってんのか?」
「そうさ、日本はオレの大好きな国だからな。明日の本番が今から楽しみだよ」
「HA HA HA。それならいいが、あんまり気負いすぎるなよ。何だか声の調子がおかしいぜ? 本番に影響が出ないようにな」
「あぁ、わかったよジーン」

 リハを何とか終え、遂に本番を迎えた。ボクの本当の試練はここからだった。


             -5-

 本番前、ボクはスタッフからライブのセッティングリストを貰った。そしてボクはそのリストを完全に暗記したんだ。舞台の台本みたいにね。
 リストの中身はスゴイ量だったよ。普通セッティングリストなんて、曲順と演出が少し書かれているくらいだけど、全く違うんだ。見た目から分厚くて、そして演奏中のことが事細かに書かれてるんだ。例として、冒頭部分を見せてあげようか。

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SEの曲が終わり、会場の照明が落とされる。スタッフの開始合図で控え室を出発。ステージまで4人で練り歩く。その際、カメラマンからの映像が客席に中継されているので、各自気を抜かないこと。(カメラ目線も可)
ステージに到着し、各自が持ち場について準備完了後、幕が落とされる。そこで台詞。
ポール「Alright Tokyo! You wanted the best, you got the best! The hottest band in the world, KISS!!」
爆発などの演出と共に、一曲目「King of Night Time World」スタート。
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 とまぁこんな感じで、曲から曲の間まで全て記されているんだ。それどころか、曲中でも「ここはジーンにスポットライト。ギターソロでトミーは左のお立ち台の上に行くこと。そこにライト」なんて風にかなり細かく決められているんだ。ほんとに舞台の台本みたいだよ。
 だからボクは、演奏をこなすよりもライブでの流れや決められた動きを忘れないようにこなす方が何倍も大変だったし気を遣ったんだ。

 でも一週間の急ごしらえではミスも生じたよ。突然の爆発にはビクッてしてしまったし、炎が上がったときには熱くて暑くて、焼けちゃうんじゃないかと思った。ジーンが天井から吊されたステージの上で演奏してる時は、落ちてきやしないか心配でたまらなかった。ボクのソロの時はライトが集中して眩しいし観客の視線は恥ずかしいし、逆にポールが客席の中で歌った時なんて誰もボクの方を見てやしないから少しふてくされもした。
 でもジーンと二人で1つのマイクにコーラスした時、ジーンから「緊張せずに気楽にやれよ」って話しかけられたのはスゴイ嬉しかったよ。

 こうして初日を終えその後の公演も無事こなし、ボクは満足感で一杯だった。けどそれが気の緩みを生み、そして遂にボクの正体が遂にばれてしまったんだ…。


             -6-

 最終日の公演を終えたボクは、程良い疲労感と大きな充実感に酔っていたんだ。もちろんビールも飲んでいてお酒にも酔っていたけどね。
 そして控え室で、何を思ったか衣裳を脱ぎながら濡れタオルで顔をゴシゴシやっちゃったんだ。メイクをしてるなんてこと忘れていたよ。ましてやボク自信が秘密の代役だったことなんて、完全に忘れてしまっていたんだ。

 そこに、エリックがやって来た。エリックはオリジナルメンバーではないけれど、これまで何度もKISSのライブに出演してきたメンバーの一人だ。そしてそのエリックが、メイクのはげ落ちたボクの顔を見てこう言ったんだ。

「フー・アー・ユー!?」(あんた誰?)

 ボクは焦ったよ。死ぬ程焦ったよ。どうしていいかわからなかったよ。頭が混乱して、何が何だかわからないまま、事の始まりを思い出していたよ。
 そう、全てはマークの提案から始まったんだ。マークの名前を出せば理解して貰えるんじゃないか。いや、マークの事も秘密なんだっけ…??

 そう考えている内に、徐々にだけど冷静になってきた。そしてエリックの顔を凝視してみて気付いたんだ。そしてボクはこう言った。

「フー・アー・オールソー・ユー?」(あんたも誰?)

そ う、エリックの顔も、ボクが知っているエリックではなかったんだ。リハで一緒だったエリックに。こうしてボクとエリックらしき人はお互い見合ったまま、暫くその場を動けなかったよ。そんな中、先に口を開いたのはエリックらしき人だった。

「キミ、もしかしてトミーの代役かい?」
 ボクは答えに窮した。ここで代役であることを認めてもいいものかどうか、なかなか判断が出来なかったからだ。でも、正体がばれてしまった以上ヘタな言い逃れは出来そうにない。だからボクは、正直に白状することにしたんだ。
「あぁ、そうだ。ボクはトミーの代役さ。日本人でシンジっていうんだ」
 するとエリックらしき人は驚きながらボクにこう言った。
「キミ、日本人なのかい? 全然気付かなかったよ。いやぁ上手く化けたもんだ。オレより上手いんじゃないかな?」
「えっ!? オレよりって…? まさかキミも代役なのかい?」
「実を言うとそうさ…。オレはエリックの代役のジョージってんだ。本物のエリックは今頃銀座さ。今日はオレの出番だったんだよ」
 ボクはその答えにホッとした。しかし、その瞬間に控え室のドアが開いたんだ…。


             -7-

 ボクはギョッとして開くドアの方を見た。ジョージも突然のことに驚いているみたいだ。ドアが開き、入ってきたのはジーンとポールの二人だったんだ。

「ヘイ、キミタチ。代役なんだって? ビックリしたよ」
「気付かないもんだなー。ステージ一緒だったってのに」
 何故かジーンとポールは笑いながらボク達に語りかけてきた。ボク達は偽物だよね、なんでそれを気にしないんだ? みんなを騙してステージに立っていたようなもんなのに…。

「キミ、日本人なんだろ? 英語上手いもんだ。それにギターもいい音出してたぜ」
「確かに良いギターだったな。トミー以上なんじゃないか? HAHAHA」
「はぁ…、ありがとうございます」
 フレンドリーに話しかけてくる二人にどう接すればいいんだか、ボクは困ってしまった。騙したことを怒ってないのだろうか。それより何より、ボクはこの後どうなってしまうんだろうか…。
 すると、後ろからマネージャーと、その後に続いて二人の男が入ってきた。その二人は、ジーンとポールの二人と全く同じ格好をしていたんだ。

「じゃあ私から説明しようかな」マネージャーが口を開いた。
「実はね、ジーンとポールも替え玉を使っていたんだよ。ライブ中に隙を見てはステージ脇で入れ替わっていたんだ。何せ二人も年だろう? 2時間近くのライブをこなすのには無理があるんだよ。だからボーカルが無い部分は替え玉の出番ってことなのさ」

 つまり、KISSは4人が4人とも代役を立ててライブをこなしていたんだ。トミーとエリックがそれぞれ隠れて代役を立てていたように、ジーンとポールも代役を立てていた。もちろんボーカルとかのこともあるから、マネージャーや専属スタッフに秘密って訳にはいかなかったけれど。
 代役の代役であるボク達について、マネージャーは薄々気付いて居たみたいで色々と調べていたらしい。既にトミーやエリック、そしてマークにも連絡を取っているんだって。だからボク達がバレるのは時間の問題だったってことだ。

「キミタチには感謝してるんだよ。既にKISSのメンバーと言ってもいい。だから私としては、この後のツアーにもキミタチに参加して欲しいんだけど、どうかな?」
 マネージャーはボク達にこう提案した。
「一緒に行こうぜジャパニーズ・ブラザー! キミのギターは最高だからな」
 ジーンもこう言ってくれた。

 そしてボクはその提案を受諾したんだ。


             -8-

「ワタシ、ジーンの代役のレイモンドです。どうぞヨロシク」
 ボクは、ジーンの代役のレイモンドと握手をした。そしてこの後も、KISSの一員としてツアーを回ることに決めたんだ。

 こうしてボクは日本を離れ、次のツアーにも参加することになった。世界中を回るツアーは半年以上も続いて、ボクはその間にKISSとして完全に馴染んでいったんだ。途中からトミーやエリック、それにマークも合流して、気付けばKISSは代役や代役の代役を含めると総勢10人のビッグバンドになっていたよ。もちろんステージで同時に立つのは4人なんだけどね。
 
 
 そしてツアー終了後、メンバー全員でニューアルバムを作ったんだ。タイトルは『Who are you?』。そのタイトルに隠された意味は、メンバーにしかわからないだろうけど。(笑)
 『Who are you?』が手元にある人は、クレジットを見てみてよ。ボクの名前が入っているはずだから。もちろんマークやジョージの名前と共にね。

 こうしてボクはKISSの隠れメンバーとなり、現在も世界を飛び回っている。今じゃ舞台演出の炎や爆発で驚くことも無くなったし、台本とも言うべきセッティングリストは身体で覚えているよ。それだけボクのトミー・セイヤーっぷりは様になってきたってことかな。

 考えてみると、トミー自体もオリジナルメンバーであるエース・フレイリーの模倣なんだよね。するとエースの代役のトミー、そのトミーの代役のマーク、そのマークの代役のボクってことになるのかな。何だか複雑だなぁ。
 でもこれが案外うまく行ってるんだ。やっぱり一人一人の負担が小さいってことが一番のメリットだよ。それに何だかみんなで旅行をしている気分だしね。大人数のバンドもいいもんだよ。

 そうそう、今次のアルバムの制作に取りかかってるんだけど、初めてボクの曲が収録されることになったよ。もちろんクレジットではジーンの曲ってことになるんだけど。
 曲名は『Hard Luck Japanese Man』。もちろんこれはボク自身のことさ。何だか分からない内にKISSの中へと飲み込まれた体験を歌にしたんだ。他のメンバーも気に入ってくれてるみたいだよ。

 今考えてみるとボクは決して不幸なんかじゃない。むしろ幸運だよ。ボクがKISSの一員になれるなんて、今でも夢みたいだもの。だからボクは、ライブで目一杯『Hard Luck Japanese Man』を歌うんだ。いつまでもこの夢が覚めないようにね。

(おわり)




 今回、予定では「Lucy in the spy wiht Dinamite」という作品を書き上げる予定でしたが、残念ながら完成しませんでしたので、また過去作から引っ張ってきました。昨年の6月に書いた作品です。

 今回の作品、いかがでしたでしょうか。気に入って頂ければ下のバナーをクリックして貰えればと思います。



仁礼小一郎(花押)

テーマ:自作小説 - ジャンル:小説・文学


舞台『ウイルスさんと粘膜さん』   (2006/02/04)
設定・人の体内。体内に侵入しようとするウイルスと、それをあくまで「職務」として防ぐ免疫力の話。

 舞台中央に机と椅子。そこに守衛(粘膜・以下「シ」)が気怠そうに座っている。時折あくびを噛み殺したり、自分の肩を叩いたりしている。
 とそこへ、周りをキョロキョロしながらウイルス28号(以下「ウ」)が入ってくる。守衛、ウイルス28号には気づかないが、28号は守衛に気づき、少しぎょっとする。そして守衛から隠れるようにして携帯電話を取り出し、誰かと話し始める。

ウ 「もしもしぃ、あっお疲れ様です28号ですぅ。すいません、ボスいらっしゃいます? はい、お願いします」
(暫しの間)
ウ 「あ、ウイルス28号ですけど。お疲れ様です。今ですね、くしゃみに乗って鼻の穴から体内に侵入するところなんですけど。はい、そうです、人間の。それでですね、これから侵入してさっさと体に菌を感染させたいところなんですがねぇ、ちょっと厄介で。えぇ、そうなんですよ、例の予防対策でしたっけ? 入り口に守衛が居て中に入れないんです。え? ちょっとお待ち下さい」

 28号、守衛の様子を覗き見る。守衛、まだ気づかず一人暇つぶしをしている。

ウ 「あ~、守衛はやる気ないんでセキュリティはかなり甘いんですがね、とはいえまだ僕この仕事始めたばかりで自信ないんですよ…。え? はい、わかりました、ちょっとやってみます。ではまた後で連絡するんで」

 28号、携帯を切り一つ深呼吸。少し思案し、意を決して守衛の方へと向かう。

ウ 「あぁ、どうもどうも。いつもご苦労様です…」
シ 「あ、これはこれは。どうぞどうぞ」

 守衛、全く気にせず28号を通す。28号、内心嬉しがりながら守衛の前を通り抜け、急ぎ立ち去ろうとするも、途中で見えない壁にぶつかり派手に転ぶ。(SE・ぶつかる音)

ウ 「いてっ!」
シ 「はて、どうかされました? おやまあセキュリティドアに引っかかったんですな」
ウ 「(身体をさすりながら)いてて…。なんだ、どうなってるんだ?」
シ 「おや、まだご存じなかったですか? 実はつい先日なんですがね、こちらの体は予防接種を受けてセキュリティを強化したんですよ。なので入り口で認証をしないと入れないんです。あれ、ご連絡無かったですか?」
ウ 「えっ…。え、ええ、まあ。実は私、久々にこちらに来るもんで。連絡来てないんですよ…」
シ 「あら、そうなんですかぁ。あ、もしかしてあれですか? 新陳代謝で間違って体内に出ちゃったとか!」
ウ 「えぇ、まあそんなとこです」
シ 「あはは、あれって大変らしいですねぇ。汗と一緒なら全身が塩っぽくなるだけで済むそうですが、お尻からになっちゃうとねぇ。もう臭いがきつくて。それにミの方になっちゃうと全身にそれが付着してそりゃあもう…」
ウ 「き、汚いなぁ。その話はいいんですけどね、こちらのセキュリティの解除方法を教えてくれませんかね? そうしないと僕入れないんで」
シ 「解除の仕方ですか? それはパスワードかもしくは…(親指を突き出して)これをピッと認証するんですけど。このご様子だとどちらも登録されてませんよねぇ?」
ウ 「え? ええ、まあ。困ったなぁ。何とか入れてもらうこと出来ませんかね?」
シ 「いやぁ、私にゃそんな権限ないんでね、それはできないんですよ」
ウ 「そこを何とかお願いしますよ! 中に入らないと僕仕事が出来ないんですよ!」
シ 「そりゃあわかりますが、どうにもねぇ。弱りましたねぇ」

 守衛と28号が絡んでいるところへ、「白血球」というプラカードを首からぶら下げた白血球(以下「ハ」)が陽気に歌を歌いながらやってくる。そして守衛へ挨拶。

ハ 「おや、今日もご苦労様」
シ 「あぁ、これはどうも。どうぞどうぞ」

 白血球、ノーチェックで守衛と28号の前を悠々と通り過ぎ、セキュリティドアの前へ。とそこへ、携帯電話に着信があり、しょうがなくその電話に出る白血球。

ウ 「い、今の誰?」
シ 「おや、ご存じないですか? 白血球さんですよ。リンパ腺所属のエリートさんですよ?」
ウ 「あいつが敵かぁ…。あ、いやいや。そうそう、白血球さんですよね、思い出しましたよ。ちょっと頼んでみようかな。すいませ~ん、白血球さん!」
ハ 「ん? 何か用かね? というか君は誰だね?」
ウ 「ぼ、僕ですか? やだなぁ忘れないで下さいよ、えぇと、僕は…そう、横隔膜所属のヘモグロビンです!」
ハ 「横隔膜? あの部署はシャックリにしか役立たないお荷物部署じゃないか。体内の最前線で守っている私からすれば、まぁ君のことを知らなくても当然かな」
ウ 「そ、そうですよね、僕の部署はしょせんマイナーですから。まぁそれはおいといて、僕のことをお忘れかもしれませんけど、実は今セキュリティドアを抜けられなくて困ってるんですよ。同じ体内のよしみってことで、今回だけ一緒に入れてもらえ
ませんかね?」
ハ 「それはできないなぁ。何せ私は体内の健康を守る身だからね。君がいくらうちの所属だからって、それを証明するものが無いことには入れられないに決まっているじゃないか。セキュリティだよセキュリティ! 今じゃ常識じゃないかね? というか君、所属証も持っていないじゃないか。(観客の方を指指しながら)見てみろ、君以外全員ちゃんと首からさげてるじゃないか! 君だけだよ、してないのは。こんなんじゃまず無理だね!」

 28号、首から何もかけてないことを気まずそうにしている。守衛、白血球の言い分をうなずきながら聞いている。

ハ 「というわけで、私は忙しいのでもう行くよ。ま、君もせいぜい体内に入れるように
   頑張ってくれたまえ。ではまた」

SE・ピッ&セキュリティドア開閉音
 白血球、親指でピッとしてドアを突破し笑いながら奥へはける。それを見届け悔しそうにしている28号に守衛が話しかける。

シ 「残念でしたねぇ」
ウ 「ちっ、あのエリート野郎。中に入ったら真っ先に殺ってやる…」
シ 「え?」
ウ 「え、いやいや、こっちの話ですよ。でもエリートだからってあんな言い方無いと思いません? ひどいよなぁ」
シ 「まぁ白血球さんの言い方もきつかったとは思いますけどねぇ。でもこのご時世、しょうがないと思いますよ。今やどこもかしこもセキュリティセキュリティって、騒いでるじゃないですか。やれここが危ないとか、やれこうすると予防効果があるだとか、もう色々言われて、何を信じていいんだか、何をやればいいんだか…。正直、嫌になってきちゃいますよ」
ウ 「ほんとそうですよ。こっちも仕事がやりにくいったらありゃしない…。あ、いやね、ちょっとの間外に出てただけで、体内には戻れないんですから」
シ 「すいませんね、まぁそういうことなんで、やはり私にゃ中に入れられないんです」
ウ 「どうしても…ダメですか?」
シ 「えぇ、ほんとすみませんねぇ」
ウ 「はい、わかりました! では僕出直して来ますよ。ちゃんとセキュリティロックを解除出来るように、中の人に連絡なり取ってみますんで。お手数お掛けしました」
シ 「そうですか。では私はこちらにいつも居りますので、中に入れるようになったらその時はまたこちらに来て下さいね。はい、これ。守衛室の連絡先です。お待ちしてますので…」
ウ 「ありがとうございます。それでは、僕はこれで」

 28号、守衛に挨拶し、はける。守衛、椅子に座り直しまた暇つぶしを始める。28号、急ぎまた携帯を取り出し電話。

ウ 「あぁ、ボスですか。28号です。あの~、実はですね、先ほどの件なんですけど…やっぱ僕には無理だったんじゃないかと。え? いや、守衛はいいんですが、何せセキュリティロックがかかっていてドアを突破出来ないんですよ。はい、例の予防接種ですよ。色々手は尽くしたんですがねぇ、ちょっと…。いや、別に僕ぁさぼってるわけじゃないですって。ちゃんとやってますよ。いや、ですから…。えっ? そんな! 中に入れなかったら首だなんて、ちょっと、無理ですって。ボス! ボス…! って、切っちゃった。どうしよう…? どうにか中に入らないと、首になっちゃうよ。あぁ、やだなぁ。でもどうにかしないとしょうがないしなぁ…」

 28号、守衛をもう一度覗き見る。守衛、まだ暇つぶし中。

ウ 「しょうがない、僕には後がないんだ、どんな手を使っても中に入らないと…。よ~し!」

 28号、何かを決意し、一旦はける。暫くした後、野球帽をかぶってやってくる。

ウ 「オーライ、オーライ、オー… あっ! 風に乗って打球が伸びるぞ~ あぶなー
   い!」

SE・ガラスの割れる音

シ 「ば、ばっかもーん! 誰じゃ!」
ウ 「す、すいません! 向こうで野球をやっていて、それで…。あの、ボールを取りたいんですけど、中に…入れてもらえませんか?」
シ 「ダメじゃダメじゃ! 中に入りたいんなら、ガラスを弁償してもらってからじゃ!」
ウ 「ちぇっ!」

 28号、残念そうにはける。次に、舞台袖から携帯電話を取り出し、掛ける。すると守衛室の電話が鳴る。

SE・電話のベル

シ 「はい、もしもし…」
ウ 「あ、じいちゃん? オレだよオレ!」
シ 「オレって言われても…。あ、もしかしてリョウかい?」
ウ 「そう、リョウだよオレ! じいちゃん、大変なんだよ!」
シ 「どうしたんだい? 何か困ったことでもあったのかい?」
ウ 「実はオレ、車で人をはねちゃって、今すぐに慰謝料を払わなきゃいけないんだよ!そうしないとオレ、警察に訴えられちゃうよ! 助けて、じいちゃん!」
ウ 「そ、それは大変じゃないか! で、ワシは何をすればいいんだい?」
ウ 「うん、じゃあね、入り口のセキュリティドアを解除すればいいから!」
シ 「え、それでいいのかい? それで助かるんだね?」
ウ 「うん、それで大丈夫、じいちゃんほんとありがとう! それじゃあね」

 28号、電話を切り、小さくガッツポーズ。早速ドアの前へ向かおうとしたところで、守衛の孫(リョウ。以下「リ」)台本を持ったままぼんやりと歩いてくる。

シ 「あっ、リョウじゃないかい!」
リ 「あれ、じいちゃん」
シ 「ドア、解除しといたよ。大丈夫なのかい?」
リ 「えっ、何が? 何かあったの?」
シ 「何かって…人をはねたんだろ? 警察とか大丈夫なのかい?」
リ 「何の話してるのさ? あのね、僕は今、初の舞台で緊張して、台詞を忘れちゃわないように懸命に覚えてるの。だから邪魔しないでよ。もう行くからね!」
シ 「って、リョウ、待ちなさいって。怪我をした人様はどうなったんだい?」
リ 「(ぶつぶつ言いながら)親父と息子、向き合って掛け声。タッパーズの去私眈々! あ、そうかこういうことか! 去私眈々! ぶつぶつ…」
シ 「ちょ、ちょっと!」

 リョウ、ぶつぶついいながら退場。守衛、それを訳も分からず見送る。そしてその様子を気まずそうに眺める28号。

ウ 「あ、あの…。今のがリョウさん?」
シ 「えぇ、そうですが、アナタ誰?」
ウ 「し、失礼しました…」

 28号、客席の客より所属証を借り、首からかける。そして眼鏡を掛けて守衛の元へ。

ウ 「あぁ、どうもどうも」
シ 「はて、どちら様でしたかな?」
ウ 「私、こういうものです」(首のカードを見せる)
シ 「ん? タッパーズの去私眈々…新宿ゴールデン街劇場? なんですこれ?」
ウ 「いや、ここですよ! ほら、GUEST!」
シ 「あ、ほんとですねぇ。で、どうされました?」
ウ 「はい、私別の体から来たものなんですが、こちらの体に呼ばれまして…」
シ 「あぁ、ご面会の方ですか?」
ウ 「そうですそうです。なのでちょっと中に入れてくれませんかね?」
シ 「そうしますと、一度取り次がないといけないので…」
ウ 「え、そうなんですか? 面倒だなぁ…」
シ 「ちなみに誰にご面会で?」
ウ 「え、え~と…。では白血球さん、で」
シ 「少々お待ち下さい…。(受話器を取り話す)あ、もしもし。こちら守衛室ですが。あ、どうも。実は今、白血球さんにご面会の方が来てるんですが。えぇ。 あの、お
   名前は?」
ウ 「はい? 名前ですか? え~と…。長州小力です。『いや切れてないっすよ』」
シ 「そんな小デブは知らん、と仰ってますが…」
ウ 「小デブって…。知ってるじゃないか!」
シ 「知らんものは知らん、人違いだと仰ってますが…」
ウ 「じゃああれですあれ。私の名前は藤井隆です。『体の一部がホットホット!』」
シ 「そんな乙葉の旦那は知らん、と仰ってますが…」
ウ 「だから知ってるじゃないか! 通してくれよ!」
シ 「オレの青春、乙葉を返せ、と仰ってますが…」
ウ 「なんだよ~、乙葉ファンかよ! じゃああれですあれ、私の名前はレイザー
   ラモンです。フォー!(&腰振り)」
シ 「そんなハードゲイ、略してハゲなんて知らん、と仰ってますが…」
ウ 「いやだから知ってるでしょ! それにハードゲイの略はハゲじゃないし!」
シ 「あいつ絶対将来はげる、(長井秀和風に)間違いない、と仰ってますが…」
ウ 「いや長井秀和はいいから、通してくださいよ!」
シ 「うるさい、もう切るぞ、と仰ってますが…」
ウ 「あ~、うそですうそです。そうだ! 私の名前は…」
シ 「あぁっ、切れた」
ウ 「…『いや切れてないっすよ』」
シ 「えっ? 切れましたよ?」
ウ 「……。くっそ~…」

 28号、頭を抱えながら舞台袖へ退散。

ウ 「あ~、こんなんじゃいつまで経っても中に入れない! こうなったらもう無理矢理にでも入るしかないんだ! くそ~!」

 28号、結局最後にサングラスをかけ、強盗スタイルで突撃。

ウ 「おい、痛い目に遭いたくなかったらセキュリティロックを解除しろ!」
シ 「はっ、はい?」
ウ 「痛い目に遭いたくなかったらセキュリティロックを解除しろ!」
シ 「何ですかあなたは?」
ウ 「見て分かるだろ、強盗だよ。セキュリティロックを解除しろって言ってるんだ!」
シ 「いやですよ、乱暴は…」
ウ 「じゃあさっさとそこを開けるんだ!」
シ 「そうは言われてもですね…」
ウ 「さぁ、早く!」
シ 「や、やめて下さいよぉ、ちょ、ちょっと!」

 28号、守衛に掴みかかる。守衛、必死に抵抗。暫くもみ合った後、はずみで28号のサングラスが外れ、正体がばれる。

ウ 「あっ…」
シ 「あなたは…さっきの…」

 28号と守衛、無言で見つめ合う。暫くした後、28号、目線と共に肩を落とし、諦めて帰りかける。

シ 「待ってください…」
ウ 「!」
シ 「待って下さいヘモグロビンさん…。いや、ウイルスさん」
ウ 「えっ…! 何故僕がウイルスだって…?」
シ 「それくらい私でも気づきますよ。あなたがウイルスだったってことくらい、一番始めに来たときから気づいてましたよ。今時、横隔膜所属であんなに仕事に真剣に取り組んでいる細胞なんて、ありませんからね。おそらくウイルスなんだろうなってわかっていました…。そんなに入りたいんだったら、さぁどうぞお入り下さい」
ウ 「で、でも…。いいんですか?」
シ 「私ぁねぇ、別に好きでこんな仕事をやってるわけじゃないんです。他にめぼしい仕事が無いんでしょうがなくやってるんですよ。それに…いくら私が真剣に職務に励んだって、いくら私が懸命に体の健康を守ろうとしたって、結局は体の主の心がけ一つで全くの無駄になるんです。私は以前の職場で、それを嫌と言うほど思い知らされましたよ…」
ウ 「何か病気でも、されたんですか…?」
シ 「えぇ、淋病でした…。いくら私が鼻の中で懸命に頑張っていたって、体の主が何も考えずに不純異性行為を繰り返せば、性病の一つや二つ、感染しますよ…。その時私は思ったんです。この仕事は真剣にやっても報われる仕事じゃないんだな、と。それからですよ、私が仕事に対してやりがいを無くし、ただただ楽をして仕事をこなすようになったのは…」
ウ 「そうだったんですか…。だからあんなにやる気がなかったように見えたんですね」
シ 「えぇ、そうですよ。もし予防接種なんてやっていなかったら、あなたも軽々と侵入できたでしょうに、色々大変でしたねぇ。そもそも、こんなセキュリティ対策に一体どんな意味があるのでしょう。先ほどもあなたに愚痴ってしまいましたが、世の中セキュリティセキュリティって馬鹿の一つ覚えみたいに…。本当に大切なのは、本当に効果のあるセキュリティなのは、もっと根本的なことなんですよ。規則正しく生活して、昔ながらの食生活で、日々健康を心がけて生きていく…。そう、全ては心がけ次第なんですよ。この体の主も、残念ながらその心がけが足りなかった…。だからあなたがここにやって来たんです」
ウ 「確かに…。僕がこの体に乗り込んできたのも、そもそもはこの体の主が寝るのをそっちのけでゲームセンターで今時ダンスダンスレボリューションをプレイして、汗だくになりながら『サタデーナイトフィーバー』状態でノリノリだったからです…。もしもこの体の主がゲームセンターで汗だくになったまま、寒い夜道を歩いて帰らなかったなら、僕はこの体に来ることはなかった…。心がけが足りなかった、そういうことですね」
シ 「そうですよ、だから私はあなたをこの先に通しても、何も罪悪感を感じないんです。そう、結局はこの体も、前の体と同じだったってことですから。さぁ、どうぞお通り下さい…」
ウ 「ありがとうございます…。このご恩、忘れません。では」

 28号、守衛に礼をした後、セキュリティロックを解除してもらい中へ。(SE・開閉音)そして舞台からはける。

SE・サイレン音
(以下、録音)

「くせ者じゃ~出会え出会え~!」
ハ 「む、何やつ? お、おぬしは!」
ウ 「さっきはよくも馬鹿にしてくれたな。これでもくらえ!」
ハ 「おぬし、謀ったな! く、一生の不覚なり…無念…」
ウ 「白血球、討ち取ったり~!」
「もう壊滅じゃ、城に火を放て! むざむざくせ者を逃がしてはならん!」
火の燃える音とサイレンが大きくなり、フェードアウト


 28号、ぼろぼろになりながら出てきて守衛の前へ。

シ 「終わったんですね…」
ウ 「えぇ、おかげさまで。ここはもう持ちません。あなたも早く逃げた方が良いですよ。ここはもうすぐ灼熱のように熱くなる…そうなると手遅れだ」
シ 「そうですか…。どうやらあなたは恐ろしいウイルスだったようですね」
ウ 「えぇ。黙っていてすいません」
シ 「いや、いいんですよ。私は気にしていませんから。次の働き場所を探すだけですか
   らね…」
ウ 「そうですか」
シ 「また次へ、行かれるんですか?」
ウ 「えぇ、そろそろ迎えが来るんで…。どうも、ありがとうございました」
シ 「またどこかで会えるといいですね。その時は…易々とは通しませんよ」
ウ 「えぇ、楽しみにしています…。それでは、また」

SE・くしゃみの音。「はっはっはっくしょん!」  

暗転


テーマ:創作シナリオ - ジャンル:小説・文学


惜別鶴 【年末連日掲載祭作品!】   (2005/12/31)
 四国のとある田舎町へと向かうフェリーに乗った私は、十年振りに訪ねる故郷の姿を思い出していた。私は二十年程前に大学進学のため上京し、大学を卒業後も東京に留まりごく普通の会社に就職。そして社内恋愛の末に結婚し、今では子供二人、小さいながらも家庭を持って生活している。そんな私の元に故郷の母親から便りが届いたのは、寒さが身に堪え始めた霜月のある日のことであった。今年の年賀状以来に見る母の字で書かれたその便りには、父が倒れ、もう先が長くないということが記されていた。

 フェリーの甲板の上に立ち、海の上に一直線に引かれた船の後を眺めながら、私は父との記憶に思いを馳せていた。決して仲が良かったとは言えず、とはいえ仲が悪かったとも言えないごく普通の親子であった関係は、特別私を感傷的にはさせなかったものの、やはり人並みには父の容態を気遣わせ、そしてまた母の現在の心境も気遣わせた。

 両親に関していえば、私の目から見るととても仲の良い夫婦だったように思えた。決して都会とは呼べないような地元の田舎町で教師をしていた父は、赴任して暫くして母と出会った。母の弟が父の教え子で、弟の保護者代わりをしていた母と知り合い、結婚に至ったのだ。親の反対を押し切った末での結婚だったんだよ、と良く母が微笑みながら語りかけてくれていたことを、幼心に今でも覚えている。
 思えば私の記憶の中での母は、いつも微笑みを浮かべていた。私が大学の卒業を控え、東京に留まる事を伝えたときも、母は温かくその決断を受け入れてくれた。そして結婚すると言っていきなり彼女を連れてきた時も、現在の妻である彼女を笑顔で出迎えてくれた。長男を連れて帰省した時も、「孫は宝物っていうのは本当なんだねぇ」としみじみと言いながら、可愛がってくれた。私にとっては、とても温かく、そして全てを受け入れてくれるような、素晴らしい母親だった。
 その母とは逆に、父の印象といえば、いつも私に対して無愛想で、それでいて頑固で強情だという記憶だった。大学進学での上京に反対され、東京での就職にはそれ以上に反対された。「お前はこの町を捨てて行くのか」と怒鳴られた時には、私もつい意地になり、「こんな町にいつまでもいられない」と本気で言い返したこともあった。その頃の私にとって父は、いつまでもこの町に固執する、頑固親父という印象しか持てなかった。しかし、いざ自分が父親になり、孫を可愛がる母の姿を嬉しそうに眺める父を見ると、その当時の父の心境をようやく理解出来たような気がした。父は、母のことを気遣っていたのだ。一人息子である私が東京でずっと生活する事を、誰よりも母が悲しむことを察していたのだろう。いつでも笑顔で受け入れていた母の内心を、父は酌んでいたのだ。

 そんな父と母にも、ここ十年近く会っていない。長男が小学校に上がり、その三つほど年下の長女が幼稚園に入ってからというもの、妻が仕事を再開したこともあってなかなか帰省は叶わず、気付けばもう長男は中学生になっていて、未だ帰省した事のない長女も小学生になっていた。今更ながら、もっと頻繁に会いに帰っておけば良かったと後悔してしまう。父も母も、さぞ喜んでくれただろうに…。


 フェリーの船内アナウンスで気付き進路へ目をやると、故郷の町が近づいてきているのが見えた。遠目では、十年の歳月を感じさせることはなかったが、おそらくフェリーが近づいて街並みをきちんと把握したとしても、そこまで歳月は感じないはずだ。私が乗ってきたこのフェリーだって、ほとんど昔と変わらないのだから。それが、私の故郷の田舎町なのだ。
 私はフェリーから故郷の町へと降り立つと、荷物を抱えたまま港からバスに乗り、父が入院している病院へと向かった。途中、私の母校である学校の前を通りすぎた。学校は町に一つしかなく、私の母校は小学校と中学校を兼ねていた。もちろん私もその学校に通っていたため、父は私にとって親であるものの、先生という立場でもあった。そういった部分も影響し、私に対して厳格だったのかもしれない。父はその後もその学校の勤務を続け、数年前までは校長を務めていた。父にとってこの町は、教え子だらけといっても良かった。当然私も、この町に居る限りは、その父の息子という立場から逃れられなかった。今思えば、私がこの町を出たがっていた原因の一つは、その居心地の悪さだったのかもしれない。

 病院前でバスを降り、母の待つ父の病室へと向かっていると、途中の廊下で呼び止められた。振り返ってみると、看護婦姿をした女性が立っていた。学校で同じクラスだったこともある、同級生だった。「先生のお見舞いに来たんですね」と彼女は私に確認し、父の病室まで案内してくれた。病室のドアを開けると、室内には身体の至る所に管を通し、ベッドにまるで縛り付けられているかのような父と、その横で椅子に腰掛け父の看病をしている母の姿があった。母は私の姿を確認すると、昔と変わらぬあの微笑みで私を出迎えてくれた。しかしその微笑みは一瞬で消え、すぐにまた父に目をやっては溜め息交じりにこう言った。

「父さん、あまり起きてくれないのよ。ずっとベッドで眠るばかりで。今までの疲れが一気に出たのかねぇ…」

 私が上京してからの二十年余りをずっと父と二人で過ごしてきた母にとって、この状況はとても辛いものに違いなかった。これまで父は病気をほとんど患った事がなく、まして入院をするなど初めてだった。母の言葉からひしひしと不安感を感じさせるのも、そう考えると無理もなかった。まして父の様態は、この先快方に向かう事は無いのだから。
 私は病室に残る母と別れ、先程病室まで案内してくれた同級生の看護婦から父の様態を聞く事にした。十日ほど前に倒れた父は、この町から暫く行ったところにある市立病院に運ばれ、様態が安定した数日前になって、この病院へと移ってきたということだ。施設が充実している市立病院への入院を拒み、この町へ戻る事を望んだ父は、もしかすると自分の様態を感じ取っているかもしれず、また、母に負担を掛けさせまいとの気遣いがあったのかもしれなかった。どちらにせよ父は病院に運ばれたときにはもう手遅れで、あとはどれだけ延命させるか、どれだけ痛みを取り除けるか、というのが病院での治療の限界だった。

 私が病室に戻ってみると、部屋には見舞客が居た。父の教え子だったというその男性には、私も見覚えがあった。確か私の二つほど年下で、この町では珍しく「不良」というレッテルを貼られ、数々の問題を起こしていたはずだ。そんな彼に対して父は特別力を注ぎ、彼が高校を卒業して出稼ぎでこの町から出ていく頃には、立派に更生させたのだと母から聞いた事がある。彼は見舞い品として母にフルーツを手渡し、同時に何故か千羽鶴をいくつも渡していた。その光景を見て、この部屋の至る所に千羽鶴が掛けられていることに、私はようやく気付いた。おそらく教え子達がこうして千羽鶴を置いていくのだろう。しかしそれにしても、学生のお見舞いならまだしも、卒業して立派な大人になってまで、彼が千羽鶴を作って持ってきたことは奇妙な気がした。
 彼は母と世間話をした後にもう帰る事を告げ、そして私を「良かったらどこか喫茶店へでも行って少し話しませんか?」と誘い出した。私はその申し出を了承し、彼と共に病院の近くのお店へ入った。

「突然お誘いしてすいません。あなたとは一度お話ししてみたかったもので」と、昔の彼の印象しかない私にとっては、意外に思える程の丁寧な言葉遣いで私に話しかけてきた。

「私が昔、あなたのお父さんにお世話になった事を覚えているでしょうか。当時私は、自分が嫌で、家族が嫌で、そしてこの町が嫌でたまらずに、問題ばかり起こしていたどうしようもない奴でした。先生は、そんな私を救ってくれた恩人なんです。あの頃の私は何もかもが気に喰わず、教師に刃向かい、他の生徒とケンカをし、喫煙や万引きなどをすることでしか自分自身の存在を証明できなかったんです。そうしているうちに、気付けばこの町で厄介者扱いになっていました。誰も私に話しかけようとせず、私が堂々と煙草などを吸っても見て見ぬ振りで、ますます私は孤独になっていきました」

 彼の話を聞きながら、私は自分の記憶を思い出してきた。確かにあの頃この町では、彼の悪い噂を良く聞いていた。そして私が大学で上京する頃には、彼が何度か私の家を訪ねてきたような記憶もあった。

「そんな私と真剣に向き合ってくれたのが、先生だったんです。私が先生のクラスだったのは中学校の時だったので、先生にとって高校生になっていた私は、昔の教え子の一人でしかありませんでした。それでも先生は、私の良くない噂を聞いたからでしょうか、私の様子を見に何度も会いに来てくれるようになったんです。最初の頃はもちろん邪険に扱いました。私にとっては迷惑な存在でしかなかったからです。しかし何度も何度も私の元に足を運んでくれて、警察の世話になったときも引受人として来てくれて、喫煙やケンカに対して本気で怒ってくれて、自宅に招待してくれて夕食を振る舞ってくれて…。そうして先生の優しさに触れる事で、ようやく私は立ち直る事が出来たんです」

 彼は、運ばれてきたコーヒーを時折口にしながら、私に語り続けた。

「私が何とか高校を卒業出来たのも、先生のおかげだと思っています。そうじゃなければ、おそらく高校を中退し、今頃どこで何をやっていたことか…。私は高校卒業後にこの町を出て、大阪で働きました。懸命に働いて、そしてこの町に戻って生活しています。あんなに嫌いだったこの町が、今では好きでたまりません。実は私の子供達も、先生の下で学んだんですよ。まぁその頃には先生はクラスの担任ではなくて、教頭先生や校長先生になっていたんですけどね。だから私の家族は皆、先生を慕っているんです」

 彼は、「これを見て下さい」と言って、財布の中から大事そうに、ボロボロの折り鶴を取り出した。

「この折り鶴は、実は先生が私にくれたものなんです。先生は自分のクラスの生徒達に、良く折り鶴を配っていたんです。そしてその折り鶴の中には先生のメッセージが書かれていて、良く私たちはそのメッセージを読むために鶴を解いては、読んだ後また折って元通りにしていたものです。そしてこの折り鶴は、私が高校を卒業して出稼ぎに出るときに、先生がくれたものです。この鶴の中には、かなり細かい字で、私へのメッセージが書かれています。大阪へ行っても頑張れ、頑張っても駄目な時はいつでも戻ってこい、そう書かれた先生のメッセージは、一人大阪で働いていた私にとって心の支えでした。働くのが嫌になったとき、私は何度もこの鶴を解き先生のメッセージを読み直しては、どうにか希望を捨てずに居られたのです。そのおかげで、鶴はもうボロボロになってしまったんですけどね…」

 彼は笑いながら、大切そうにその鶴をまた財布の中へと戻した。そういえば私は、父が何故か折り紙で鶴を作っている姿を何度も目撃していた。これまでその行動の意味がわからなかったが、彼の話を聞いてようやく合点がいった。つまり父は、折り鶴に生徒達へのメッセージを込めていたのだ。その行動は、口数が少ない父のイメージにピッタリで、思わず私は微笑みを浮かべた。

「今日、私が千羽鶴を持ってきたでしょう? 実は病室の中にあった千羽鶴は、全て私が持ってきたものなんです。あれは私の同期だった卒業生達と一緒に、これまでの先生の教え子達の協力を得て作ったものなんです。みんな先生から折り鶴を貰っていましたから、先生には千羽鶴が一番似合うだろうと、私がアイディアを出したんですよ。もちろん、その千羽鶴の一つ一つには、先生に対するメッセージが込められてます。まぁあれだけの量なので、先生が一つ一つのメッセージを読む事は出来ないとは思いますけど、鶴の中にメッセージが込められている事は、先生も気付くはずですから」

 私は病室内の千羽鶴を思い出し、その意味をようやく知った。あの鶴は、これまでの父に対する、教え子達からのエールだったのだ。そう思うと、何だか父の事を誇らしく思えるようになった。父は、これほどまでに教え子達から慕われていたのだ。


 一通り話し終えた彼は、仕事の時間ということで、喫茶店を後にした。「また千羽鶴を持ってきます」と話す彼を見送り、私は病院へと戻った。病室へ入ると、母は先程の千羽鶴を壁に掛けているところだった。そして父も目を覚ましていた。
「おう、来たのか」と私に声を掛けた父は、また一つ増えた千羽鶴を嬉しそうに眺めた。そして私が椅子に腰掛け暫くした後、「どうだ、子供達は元気か?」と尋ねてきた。

「あぁ、二人とも元気にしてるよ。もう中学生と小学生だからね。手が掛からないというか、もう親離れしたというか…」

「子供は元気に育てばいい。お前も病気だけはあまりしなかったからな。母さんにあまり心配を掛けずに済んだ。まぁお前が東京に行ってからは、母さんは毎日お前の心配ばかりだったけどな」

 母は、苦笑いしながら父の話を聞いている。

「せっかく来たんだ。数日はこっちでゆっくりしていけよ。この町も久し振りだろう。久し振りとはいっても、そんなに変わっていないのが、この町の良さでもあるんだけどな」

 私は父の言葉に頷き、「ゆっくりさせて貰うよ」と答えた。考えてみれば、こうして父と会話をするのも十年振りだ。何故か父も母も電話というものをほとんど使わず、連絡手段は未だに手紙だったりするのだ。心なしか父の声に張りがないのは病気のせいなのか、それとも月日がそうさせるのか、私には判断がつかなかったが、どちらにせよ私にとっては十年の歳月を感じさせずにはいられなかった。それと同時に、先程聞いた折り鶴の話と相まって、私は父の表情の奥深くに隠された優しさを感じ取ることができた。それは、今までずっと気付く事の出来なかった、父の持つもう一つの面だったのだろう。


 その後私は数日間滞在し、正月に家族を連れて帰省する旨を伝え、東京に戻った。今年の正月には父と母に、まだ顔を見せていない長女を見せたかったし、中学生になった長男の成長ぶりも見せたかった。今更ながら少しは親孝行をしたいと、私は考えたのだ。しかしながらその私の考えは、残念ながら手遅れとなってしまった。

 父が亡くなったという知らせを母から受けたのは、年末が近づきかなり冷え込みつつあった、師走のある日のことだった。


 母から電話という、かなり珍しい連絡を受けた時点で、私は父の事を察したが、やはり母からの連絡はその予想通りのものだった。電話口の母の声は思ったより落ち着いていて、私を安堵させた。いつものように手紙だったならば、私が母を心配し居ても立っても居られなくなった事を、母は気遣ったのかもしれなかった。私はその日の内に家族4人で帰省する準備を整え、翌日の午後には実家へと戻った。

 葬式では街中から多くの弔問客を迎え、私は改めてこの町への父の貢献度を思い知った。同時に、父の息子であることへの誇りを感じた。母は皆の前では気丈に振る舞っていたものの、一人になると父の遺影の前に座り、夜遅くまで語り掛け続けていた。そんな母が、私は心配でたまらなかった。
 葬儀が一段落した頃、以前病室へ見舞いに来てくれた教え子の彼と私は話していた。彼は今回の葬儀でまとめ役を買って出てくれていて、葬儀の進行でかなり力になって貰っていた。彼とビールを飲み交わしながら、生前の父の話をしていると、彼がふとこんな言葉を漏らした。

「これで年始の楽しみがなくなりますね。みんな残念に思うと思いますよ。まぁそれと同時に、毎年正月になると先生の事を思い出すんじゃないかな」

 私には意味が飲み込めず、彼にその意図を尋ねた。すると彼は意外そうに私を見て、こう答えた。

「毎年年始に先生から貰える折り鶴のことですよ、年賀状代わりの。私は大阪に出稼ぎに行った年から、毎年貰ってますよ。今では教え子達全員に、毎年年賀状代わりに出しているとか。今年はどんなメッセージだろうと、みんな毎年楽しみにしていたみたいですよ」

 そのような父の行動は、私にとっては初耳だった。

「ご存じなかったんですか? おかしいですね、確か息子には生まれた年から毎年折り鶴を贈っているって、先生は嬉しそうに話していたはずなんですが…。そのアイディアを元にして、私たちのような教え子達にも年賀状代わりに贈るようになったという話でしたけどねぇ」

 不思議そうな顔をしている彼を横目に、私は記憶を思い起こしていた。言われてみれば確かに、毎年お年玉と共に折り鶴を貰っていた事を、幼心に覚えている。しかしいつの間にか折り鶴を貰わなくなったような気がした。あの折り鶴には、メッセージが込められていたのだろうか。私はそれに気付かぬまま、これまで来てしまっていたのだ。


 葬儀の片付けが全て終わり、私の妻や子供達が就寝し、私と母だけになった時、私は母にその事を尋ねた。

「父さんの折り鶴のことかい? それなら私が全部とってあるよ。どれ、一つ持ってこようかねぇ」

 そう言って、母は自室から小さな箱を持ってきた。その箱の中には様々な色と大きさの、沢山の折り鶴が収められていた。

「お前が記憶にあるのはおそらく子供の頃貰ったものだけだと思うけど、実は父さんは毎年毎年お前の折り鶴を作っては、渡せずにいたんだよ。ほら、父さんはああいう性格だから、お前が大きくなってしまって、鶴を渡すのが恥ずかしくなったんじゃないかねぇ。何せ父さんは今年だって、お前の鶴を作っていたんだから」

 沢山の鶴を箱から出しながら、母は私に語り掛けた。まるで今までずっと隠してきた事を、ようやく全て話せるような、そんな口振りだった。それぞれの鶴の翼の裏には、私の名前と西暦が書かれていた。西暦を見てみると、母の言葉通り今年のもの混じっていた。

「それにね、お前の鶴だけじゃないんだよ。ほら、これを見なさい」

 そう言いながら母が私に手渡した鶴には、私の妻、そして二人の子供の名前がそれぞれ記されていた。父は、私の家族全員に対して、毎年毎年鶴を作ってくれていたのだ。

「父さんはね、何だかんだ言ってお前の事が大切で仕方がなかったんだよ。だからこそお前が東京に行くって言ったときにあれだけ反対したんだ。けれどあの人も強情だから素直になれなくてね。こうして鶴を作る事で、少しでも気を紛らわせていたんじゃないかねぇ。まぁ鶴の事はあたしも口止めされていたから、こうして今頃になってようやくお前が知る事になったんだけれどね」

 母は、父が懸命に鶴を作っている姿を思い出したのか、鶴を手にして微笑んでいる。母の話によれば、父は毎年何百羽もの鶴を折り、その一つ一つにメッセージを書いては、教え子達に贈っていたという。そして教え子達から返事の鶴が届くたびに、中のメッセージを読んでは折って元に戻し、部屋に大切に保管していたらしい。そしてその鶴達は今でも、父の書斎に飾られているということだった。


 私は、母が眠りに就いた後、私と私の家族宛の鶴が入った箱を持ったまま、父の書斎へと入っていった。そしてその部屋で、四十羽近くにもなったこれまでの私への折り鶴を、一つ一つ解いては、読み続けていった。そこには、今まで気付く事の無かった父の愛情があった。一つ一つに、私への素直なメッセージが込められていた。私が上京を決意した後の鶴には、「お前なら東京でも必ずやっていける。挫けるな」というメッセージが書かれていて、また私が結婚をした後の鶴には、「お前にはもったいない奥さんだ。大切にするんだぞ」と書かれていた。私はそれを、涙を流しながら読み続けた。妻の鶴にも、子供達の鶴にも、一つ一つ丁寧にメッセージが書かれていた。そしていつしか私の周りは、父の手書きのメッセージが記された折り紙で一杯になっていた。

 涙で潤んだ目で、父の書斎の中を眺めていた私は、ある一つの鶴に気付いた。その鶴は、父が亡くなった後に母が病室から運んできた荷物に混じっていた。赤色の折り紙で折られたその鶴は、他の折り鶴と違って折り方が雑で、他のものとは違った印象を私に与えた。もしやと思い鶴を手に取った私は、翼の裏に書かれた西暦が来年になっていることを確認し、急いでその鶴を解いた。
 その折り鶴は、父が自分の死期が近い事を悟り、遺書のような形で残した私へのメッセージだった。病床の中、言う事を聞かない身体で必死になって作ったであろうその鶴には、仕事も家族も両方大事にしろだとか、奥さんを悲しませるなとか、子供はのびのび育てろとか、そういった教訓めいたメッセージが書かれていて、そしてその最後には一言こう書かれていた。「母さんを宜しく頼む」、と…。
 私はその鶴を手で握りしめ、父の優しさを心から噛みしめていた。そうして、その夜は更けていった。


 葬式などの処理を全て終え、私は家族と共にフェリーに乗り、故郷を後にしていた。父が作っていた家族宛の折り鶴は、私が全て本人達に渡して読ませた。妻も長男も、そして実際に一度も父に会った事のなかった長女も、父に対して何かしら感じてくれれば、という私の意図だった。その私の意図を理解した上でなのか、妻がみんなで折り鶴を作ろう、と提案してくれた。もちろんその折り鶴には、それぞれ父へのメッセージを込めて。そして皆で作った四つの折り鶴を、「天国まで届きますように」と、フェリーの甲板から空に向かって放り投げた。空へと投げられた四つの鶴たちは、まるで本物の鳥のように、風に乗って空へと舞っていった。

 生まれて初めて乗ったフェリーを気に入った娘は、「ねぇパパ、次はいつこのお船に乗るの?」と私に尋ねてきた。「そうだね、次はおばあちゃんをおうちまで迎えに行くときだから、またすぐに乗れると思うよ」と私は答えながら、フェリーが後にした故郷の方を眺めては、父と母のことを想った。
「母さんの事は大丈夫だから任せて」と書かれた私の鶴は、他の三羽と共に大空を舞い、そして海へ一直線に引かれた船の水しぶきの中へ、ゆっくりと沈みながら消えていった。





 前回落としてしまった作品をどうにか書き上げました。が、前回同様結構な量になってしまって、かつ〆切りを半日オーバーしてしまってます…。
 まぁ、沖縄人ってことで「うちな~たいむ」でご了承頂ければ、と勝手ながら…。

 今回の作品、いかがでしたでしょうか。かなり長いので読むのが疲れるとは思いますが、気に入って頂ければ下のバナーをクリックして貰えればと思います。もちろんコメントも募集中です。
 それでは、来年もどうぞ宜しく~。来年の抱負は「締め切り厳守」です!




仁礼小一郎(花押)

テーマ:自作小説 - ジャンル:小説・文学


君はまるで子猫のように、寝息を立てているね。   (2005/12/04)
「ねぇ、もっとアタシの髪を撫でて…」

 彼の腕の中でねだる。軽いウェーブの掛かったアタシの髪が、彼の指に触れて少しだけ伸びる。彼の腕の温かさがあたしの耳を通じて心の中に浸みてくる。そう、安らぎ。アタシの安らぎは彼の腕の中……。

 彼の腕に頭をちょこんと乗せ、アタシは壁の方を向いて目を瞑る。もう一方の彼の手が、アタシのちょうど腰の部分に絡みつく。毛深くて男らしい手。アタシはそんな彼の手を握りしめると、優しく胸で抱きしめる。

「アタシの鼓動、聞こえる?」

 そう尋ねると、彼はくすりと笑い、頷く。
 背中を通じて彼の逞しい胸板からじんわりと温もりが伝わってくる。そうしてアタシの心は温かくなり、優しさと満足感に満たされていくのだ。そしてアタシは眠りにつく……。


 窓から漏れてくる太陽の光で目を覚ます。後ろからは彼の寝息。彼の腕をぎゅっと抱きしめてみる。んんっ…と彼が反応してくれた。

「ねぇ、もう朝よ。起きて…」

 アタシは少し甘ったるい声で、彼を揺する。ねぇ…、と言いながら何度か揺すると、彼はようやく起きてくれた。うふふ。アタシは思わず可笑しくなって笑ってしまう。彼の寝ぼけ眼をじっと見つめて囁く。

「おはよ」



 また夜になった。今日も、彼に、抱きしめられている。腕枕をしてもらいながら髪を撫でてとねだってみる。彼の手で少しだけウェーブがまっすぐに伸びる。彼の手の温もりが、頭の後ろから伝わってくる。そしてアタシは耳たぶを弄ばれる。何だかくすぐったくて、それでいてじんわりと彼の指を感じる。スベスベした綺麗な手。アタシはその彼の手を握ると、胸の前で抱きしめた。そしてその温もりに縋りながら眠りにつく……。しかし、朝になると彼はいつの間にか居なくなっていた。


 また夜になった。今日は、彼に、抱きしめられている。腕枕をして貰いながら髪を撫でてとねだってみる。しかし今日の彼はなでてくれない。機嫌でも悪いの…? アタシが嫌いになったの…? そう尋ねても無言のまま。アタシは途端に切なくなって、どうしようもなくなって、すすり泣く。すると彼の指がアタシの涙を受け止め、拭ってくれる。ごわごわと強ばった手。アタシは嬉しくなって彼の手を抱きしめる。後ろから彼に抱き抱えられ、アタシの身体は彼に覆われる。彼の少したるんだ上半身が、弾力と共に温もりを伝えてくれる。そう、アタシが欲しているのはその温もり……。その温もりでアタシを包み込んで欲しい。そしてアタシは安心して寝息をたてるのだ。

 朝、彼もまた居なくなっていた。テーブルの上には数枚のお金が無造作に置かれている。あぁ、アタシはまた安らぎの場所を見失ってしまったのだ……。


 また夜になった。今日もまた、違う彼に、アタシは抱きしめられている。そうして彼の腕の中で今日も静かな寝息をたてるのだ。朝までの、儚い安らぎを胸に抱きしめて。


※最新作は未完成のため、2004年10月執筆の過去作品を掲載致しました。
 最新作「惜別鶴」(仮題)は、勝手ながら年末連載に回させて戴きます。


はじまり 【後篇】   (2005/10/08)
 いくら自分の夢を追い掛け続けているからって、毎日を迷わず生きていけるなんて限らない。自分自身で決めたはずの道でも、不安でどうしようもなくなってしまったり、結果がなかなか出ない事に焦ってしまったり、次第に苦痛になってしまう人も居る。自分がこれだと決めて目指しても、その道で食べていけるかどうかは、絶え間ない努力と素質、そして運がなければならないのだ。

 若者は、ロックスターになる道を選んだ。親の反対を押し切って上京し、ギターを抱えて流離う日々。そして信頼出来る仲間を集め、バンドを結成してはライブに明け暮れていた。もちろん、生活するために働かなければならない。日雇いの派遣の仕事をやっては、自分と同じくらいの歳の社員にこき使われ、それが嫌になって辞めてしまうことも多かった。安定しない収入をどうにか改善するために、待遇の良い深夜バイトを長期の希望で採用に応募しても、“ロック”の象徴であるツンツンにとんがった髪型と腕のタトゥーが、不真面目そうだという先入観を呼んではことごとく断られ続けた。しかし若者にとっては今の自分の姿形が自分なのであって、それを仕事のために変えるのはどうにも耐えられなかった。かといって収入が安定しないことにはバンド活動に集中出来ないし、自分自身でも将来に対する漠然とした不安というものを抱えてしまう状況となってしまっていた。

 バンドの練習に向かう途中、若者はいつものように電車の中で音楽を聴いていた。ちょうど作っている最中のオリジナル曲のデモを流しながら、より良い曲にするためのアイディアを練るのが習慣だった。お気に入りの高性能ヘッドフォンは、ハイクオリティーな音質を保証してくれると共に、外部の音を完全にシャットアウトしてくれた。目を閉じれば音の波の中に居る自分を感じ、まるで自分自身と音楽で対話をしているような心持ちになった。しかしながら最近は、目を閉じて頭の中に浮かぶのは、この先この生活を続ける事への不安だった。そしてその不安は日に日に大きくなっていき、若者の音楽への情熱や創作意欲を鈍らせて、バンド活動にも少なからず影響を与えるようになっていった。やる気に満ちて上京してきた当初と今の状況を比べ、ほとんど変化や進歩を感じる事が出来ない事実に、若者は戸惑っていた。

 築何十年は経っている、4.5畳程の若者の部屋には、ギターの楽譜やCD、レコードといったものが多く散在していて、足の踏み場も無い程であった。部屋の入り口のすぐ側には黒いアタッシュケースが置いてあり、その中にはエフェクターやリズムマシンなどのライブで使用する器材がギッシリと詰まっていた。バイトをしては器材を購入し、そしてまた別の器材が欲しくなったら日雇いバイトをした。そうこうしている内に、アタッシュケースに入りきらない程の量になってしまっていた。そんな部屋の中で、若者はギターの練習に明け暮れ、時折ヒートアップしすぎては隣の住人から騒音のクレームが来たりしたものの、それにももう慣れてしまっていた。

 そんな部屋の中で唯一異質に感じられるのが、部屋の端で壁に掛けられているスーツだった。若者の日常には全くと言っていい程必要のない物体だった。そのスーツは、一月程前に友人の結婚式に出席した際に着けたもので、その時からそのまま放っておかれたものだった。クリーニングに出して清潔な状態だったスーツも、煙草の匂いを存分に吸収してしまっていて、清潔感をすっかり失っていた。

 若者には彼女が居た。同じ街から、それぞれ同じように夢を持って上京し、共にその道を歩んでいた。若者のライブには必ず来てくれていたし、彼女なりの意見をいつも率直に言ってくれて、その意見は若者にとっては一番の反省材料でもあり励みでもあった。しかしいつまで経っても見えてこない自分達の将来に耐えられなくなり、結局若者の元を離れていった。「あなたは夢を追い掛け続けて。私は普通の生き方で幸せを見つけるから」と言い残した彼女が、その後地元に戻り事務として働いていると、若者は人づてに聞いた。そして友人の結婚式で久しぶりに見た彼女は、自立した立派な社会人として若者の目には映った。
 その結婚式では、彼女だけでなく周りの友人達それぞれが、立派に成長しているように若者には感じられた。そして、何も変わらぬ自分だけが取り残されたような感覚に襲われた。事実、友人達の口から漏れる言葉は、仕事の愚痴や将来のキャリアプラン、最新の経済ニュースがほとんどであり、昔のように真剣に音楽の話をしてくれる人はもう居なかった。周りが変わったのか、それとも自分が変わらなさすぎたのか、結婚式後に久しぶりに足を運んだ実家の部屋の中で、若者は自分に問いかけた。しかしいくら問いかけてみても、まだ何も答えを出せないままだった。

 若者がその解答を迫られる事になったのは、実家からの一通の手紙によってであった。その手紙には母親の字で、父親が倒れてしまった事が書かれていた。現在は入院していて命などには影響がないものの、この先今まで通りに働いたりすることは難しいと書かれていた。そして手紙の最後には、そろそろこっちに戻ってきなさい、仕事先は何とか探しておくから、とも書かれていた。
 こうして、自分自身で答えを、選ばなくてはならなくなった。

 その出来事をきっかけとして、若者は改めて今の生活に限界を感じ始めた。自分のセンスを信じてロックスターを目指し活動してきたものの、センスは疲弊し、支えているのは根拠のない自信とプライドだけだった。そして曲が評価されなければ、自分の音楽を理解出来ない方が悪いのだと自分自身に言い訳をしていた。
 アルバイト自体は深夜勤でようやく安定していたものの、かといってバンド活動に手応えを感じていないこの状況では、何のために働いていて、何のために上京してきたのかもわからなくなっていた。

 ある日、若者は雨の中をアルバイトに勤しんでいた。ようやく若者が見つけた深夜バイトは、カラオケ屋の呼び込みだった。道行く人々に声を掛け、カラオケを勧める仕事だった。高校生や大学生にはうまく話をつけて呼び込むことが出来ても、自分よりも上の年代、特にサラリーマンを呼び込んでも、全然見向きもしてくれないのがほとんどだった。そういうこともあって、声を掛ける若者にとっても、サラリーマンへの呼び込みは「ちゃんと呼び込みをしている」というアリバイ工作のようなもので、真剣に呼び込む気はほとんどなかった。
 雨の日は皆足早に通り過ぎるので、団体客以外の客を呼び込むのはかなり難しい状況だった。若者の同僚達もそのことは知っているので、全くやる気が無く、雨に濡れないように雨宿りをし、雑談をしては笑いあっていた。いつもならその中に若者も含まれていたものの、この日の若者は、一人真面目に勤務をこなしていた。雨に濡れる事も気にせずに、道行く人々に声をかけ続けた。若者はある決意をしていたのだった。

 若者は、これまで自分が真面目に生きてきたと思っていた。バンドも真剣に取り組み、バイトも人間関係がこじれて辞めてしまってはいるものの、仕事自体はきちんとこなしてきたはずだった。しかし、今思い返してみると、それは単なるアリバイ工作のようなものだったのではないかと思えてきた。地元の親に対してと、自分自身に対して。働きながら夢を追い掛けているという立場に、安住してしまっていたような気がした。そこで若者は、あることを試していたのだ。
 これまで、客の呼び込みは軽い口調で行っていた。大きな声を出せば店側も満足らしく、細かな口調までは気にしていなかった。しかしその勢いだけの呼び込みでは、やはり学生や若い人々しか呼び込む事ができなかった。そこで若者は、これまでとは違い、心をこめて仕事をしてみようと考えた。勢いだけでなく、一人一人の呼び込み客に対して、きちんと対応してみようと考えた。それは、ある意味自分自身を試す意味合いもあった。
 そこに、いつも店の前を通るあるサラリーマンがやってきた。この男は、これまでいくら呼びかけてもすぐさま拒否されていたので、いい加減若者も顔を覚えていたのだ。今までは大声で呼びかけながら無思慮にチケット付きのポケットティッシュを差し出していたため、その男は見向きもせず、疲れ切ったような顔を引きつらせては拒否をして行ってしまうのが常だった。そんな男に、若者はあえて積極的に声を掛けに行った。「カラオケいかがですか?割引チケットもありますよ」と、大声を全体に響かせるのではなく、丁寧に、そしてその男だけに語りかけた。すると男は、一瞬若者の顔を見上げると、若者が差し出した割引チケットを受け取ってくれた。男が無言だったとは言え、自分の行為が受け止められた事に対して、若者は素直に嬉しさを感じた。そしてそれと同時に、如何に今までの自分が仕事を真剣にこなしていなかったのかが分かった気がした。今更分かっても遅いような気がしたが、若者はその感覚を忘れぬよう、この日は次々に通行人に話しかけては、客を店まで案内したり、チケットを手渡したりしていた。その日の仕事を終えた後の満足感といったら無かった。

 翌日、若者は引っ越しの準備を始めていた。母親からの手紙の後色々と考え、結局地元に戻るという決断を下していたのだ。部屋に散乱していたCDやレコードを段ボールの中に詰め込んでは、昔を思い出していた。ギタリストに憧れて懸命にギターソロを耳コピしたCDや、彼女が都内を駆けずり回って探し出してきてくれたレアレコード、そして上京してすぐに作ったオリジナルのデモテープ。それらを一つ一つ丁寧に詰め込んでいった。その作業をしつつ、果たしてこの部屋で過ごした時間は無駄だったのだろうか、と自分に問いかけていた。確かに世間から見れば無駄な時間に見えるかもしれない。夢を追い掛けて地元を飛び出し、そして夢破れて地元に戻る。しかしその間の時間は、若者にとっては少なくとも忘れたい記憶では無かった。
 確かに、後悔がないわけではなかった。しかしその後悔は、今にしてようやく気付いた「真剣に生きること」を自分が実践出来ていなかったことへの後悔であって、夢を追い掛けた事に対しての後悔ではなかった。生きる事に懸命ならば、詰まらないバイトであっても少なからず満足感は得られ、そしてそのモチベーションでもってバンドにも精を出せていたのかもしれない。そしてその良いサイクルを維持出来ていれば、あるいは若者の夢は叶っていたのかもしれない。ただ、もう機を逃してしまっていた。
 若者は、地元に戻り就職し、普通の人生を歩む事を選択した。今はただその新たに選んだ道を、進んでいくしかなかった。夢を追い掛ける事で得た経験を糧に、頑張って生きていくしかないのだった。若者は、すっかり片付けが終わり妙に広く感じる4.5畳の部屋の中で、今後暫くは音を奏でないであろうギターを取り出し、コードを鳴らしては今の自分を歌いあげた。“はじまり”と題したその曲は、自分自身に一番染み入り、今更ながら自分のセンスも悪くないかも、と思ってしまって、若者はそれをおかしく感じ、笑いながら何度もその曲を歌い続けた。その歌い続ける若者の姿は楽しそうで、まるで上京したての頃のような情熱があった。

 その数日後、若者は大荷物とギターを抱え電車に乗り、慣れ親しんだ東京の街を後にした。そして後ろに過ぎていく街の情景を眺めながら、数日前に作った“はじまり”という曲を、小さな声ながらも心を込めて口ずさんだ。その口ずさまれたメロディは、若者の頭の中で奏でられたギターの音色に乗って、全てを飲み込みそうな東京の夜空に吸い込まれては、儚げに消えていった。


はじまり 【前篇】   (2005/10/04)
 いくら無事に就職したからって、人生が楽しいかなんてわからない。せっかく就職してもすぐに辞めてしまう人も居れば、ずっとずっと同じ会社にしがみついて、ある意味引き籠もってしまう人も居る。就職活動で苦労した末に入った会社であっても、その人自身に合っているかなんて、ましてや本当に良い会社なのかなんて、わかりっこないのだ。

 男は、苦労の末にとある会社に就職した。地元から一人上京してきていた分、家族からのプレッシャーは常に大きく、将来に対する漠然とした不安はいつも頭の中にあって、就職に対する焦りは男を惑わし続けていた。そんな中、何度目の正直かわからないくらいの面接を経て、晴れて社会人へとなったのだった。それが決まった瞬間、男は自分の胸のモヤモヤが晴れた気がしたし、ようやく家族からのプレッシャーからも解放された気がした。決して自らが望んでいた職業では無かったものの、就職が決まったと報告した際の親の喜びようを見ると、これで良かったのだと安心した。
 スーツにネクタイ、Yシャツを身に纏い、満員電車に揺られる日々。仕事に対する不満や疑問を抱える暇もなく、毎日は過ぎ去っていった。仕事を覚え、こなすだけで精一杯の日々。次第に草臥れ顔のサラリーマン達の中に同化していった。

 客先から会社へと戻る途中、車内でギターを抱えた若者を見た。若者、とは言っても男とは同じくらいの年齢であったが、私服で茶髪という出で立ちが、スーツ姿の男との間に溝を作っていた。大きなヘッドフォンを装着して目を瞑り、音楽に没頭する若者の姿を、男は懐かしそうな目で眺めた。まだ学生だった一年前の自分自身を思い出すかのように。またその行為は、男に一年の時の流れを感じさせ、自らの変わり様を気付かせるのに十分であった。その変化が男にとって良かったのかどうかなんて、本人にもわからない。

 1ルームの男の部屋には、何着ものスーツとYシャツが掛けられていた。以前まで好んで着けていたブランドの服は、休日しか日の目を見る事は無く、日の目を見ずに埋もれてしまっている服もあった。埋もれている物は他にも沢山あった。好んで集めていた小説は、読み手を失ったまま埃を被っていて、音を鳴らす事を止めたCDは、山積みになって今にも崩れてしまいそうだった。弦が切れ、調弦もされていない部屋の隅のエレキギターは、コードをかき鳴らしても不協和音を奏でるばかりだった。卒業を記念して自ら購入した高級万年筆は、使われることなく机の下に転がっていた。そんな部屋に男は住んでいた。いや、住むとはいっても部屋に居るのは休日だけで、平日は睡眠を取るだけの場所に過ぎなかった。休日にしたって、結局一日何もせずに寝転んでいることが多いのだった。

 そんな部屋の中で、唯一異質に感じられるものが、日々ブクブクと音を発し続けている熱帯魚の水槽だった。部屋の明かりを消してゆらゆらと揺れ動く水槽内を見ると、日頃のストレスも多少は晴れる気がした。水槽内では一匹のネオンテトラが、広すぎる水槽内をまるで居心地が悪そうにして泳いでいた。

 男には彼女が居た。将来を見据えた真剣な交際をしていた。どうにか就職を決め社会人となったのも、彼女との将来を考えての事だった。仕事に真面目に取り組み待遇を上げていく事が、二人の家庭を築くには必要だと感じられたのだ。しかし、仕事にばかり力を注ぐ男と彼女との間は徐々にすれ違いを生じ始め、結局彼女は男の元を離れていった。「あなたは仕事を頑張って。私は自分のやりたい道に進むから」と言い残した彼女が、その後アメリカに渡ったと、男は人づてに聞いた。それでも男の日常は変わり様が無かった。むしろ今まで以上に変化のない日々となった。
 彼女が残していったものは、部屋の大きさには不釣り合いな大型水槽と、その中で泳ぐネオンテトラだった。始めは十匹以上も居た魚たちは、熱帯魚好きだった庇護者が居なくなると、次第にその数を減らしていった。そして最後に残されたのが、一匹のネオンテトラだったのだ。

 そのネオンテトラが、遂に死んだ。男が会社から帰ってくると、真っ暗な部屋の中で薄青く不気味に光る水槽に、フワフワと浮かんでいた。ゆらゆらと水面に合わせて動くその死体は、まるで生きているかのように男の目には映ったものの、水流を止めると自らの意志で動き出す事は二度と無かった。
 こうして、水槽は、空になった。


 その出来事がきっかけだったのかは定かではないが、男は今の生活に疑問を抱き始めた。何かを守るために始めたこの仕事だったが、気付けば守るべき物は無くなり、働くという行為だけが残された。
 あれだけ心配を掛けていた家族とも、仕事の忙しさを理由にして連絡を絶ってからは疎遠になってしまっていた。今やこの生活は、自分だけのものだった。自分だけのもののはずなのに、少しも楽しめていない現状に、男は気付いた。


 ある日、男は雨の降る中を傘もささず、会社から駅に向かって歩いていた。急な雨で傘を持っておらず、かといって新たに購入する気も起こらず、雨に濡れながら歩く事を選択したのだ。
 駅に向かう途中に、大きなカラオケ店があった。男は毎日その場所を通り過ぎて駅に向かうのだが、たまに呼び込みの店員に声を掛けられては、無性に腹を立てていた。疲れ切って家に向かうサラリーマンに、カラオケに行く元気があるわけがない、と毒づいていたのだ。この日は雨だったので、呼び込みの店員達もまばらで、居たとしても自分が濡れぬように雨宿りをしている店員がほとんどだった。その横を通り過ぎようとした男に、声を掛けてきた店員が居た。「カラオケいかがですか?割引チケットもありますよ」と話しかけてきたその店員は、雨が気にならないのかカラオケ店の制服を濡らしたまま、男に声を掛けてきた。男はいつものように断ろうとその店員の顔を見て、思わずはっとした。以前、電車の中で見た、ギターを抱えた若者だったのだ。若者は男に割引チケットを差し出してきた。そして男は、思わずそれを受け取ってしまった。すると若者は満足そうな顔を浮かべ、次の通行人の方へ行ってしまった。男は、雨に濡れてしわくちゃになった割引チケットをスーツのポケットに仕舞い込むと、若者の方向をちらと見て、そしてまた駅へと向かって歩き始めた。


 翌日、男は疲れ切ったような顔をして会社に出社した。目は充血していて、まるで徹夜でもしたかのようだった。そして自分のデスクに座ると、腕組みをしたまま暫く動かず、ようやく顔を上げたかと思うと、デスクの隅に、ペンで“はじまり”と書いた。男は通常通り仕事をこなし、退社時間となった頃、突然デスクを立ち上がって上司の下へと歩み寄り、スーツの胸ポケットから“辞表”と書かれた一通の封筒を出すと、そのまま何も言わずに唖然とする周りを気にする素振りもなく会社を後にした。

 男は家に戻るとスーツを脱ぎ捨て、いつものようにベッドに身体を投げ出し、天井を見上げた。そしてふっと一息深い息を吐くと、ベッドから身体を起こし、部屋の中を見渡した。いつの間にか自分の場所を失っていたその部屋の中で、男は物思いに耽り、昨晩カラオケ店の前で会った若者のことを思い出していた。あの若者はどのような日々を送っているのだろうか、バンドという自らの夢を追い掛けながらバイトをして生活をしているのだろうか。昨晩、眠れずに抱いた想像は、またも広がっていった。自らの道というものを見失った男にとって、夢を追い掛ける生活に憧れを抱かずにいられなかった。そう考えていくと現状の全てが虚しくなり、昨晩から今朝にかけて考えて出した答えが、会社に置き捨ててきた封筒だった。男はまだ会社を辞めたという実感は湧いていなかったが、それがどれほど大変な事かは知っているつもりだった。それでも自分で下した決断に、男は後悔はしたくなかった。

 男にはかつて夢があった。小説家になるという夢を抱き、大学の文芸部にも所属していて、懸賞用に何本も小説を書いたりもしていた。その志を忘れぬようにと、卒業記念に万年筆を買い、満足げにそのペンを眺めていた時期もあった。しかしいつしかそのペンは、床に転がったまま埃を被っていた。まるで忘れ去られてしまったかのように。

 物思いに耽るのを止めた男は、脱ぎ捨ててあった上着の内ポケットから万年筆を取り出すと、それを満足そうに眺めた。そして今朝、会社のデスクに置き去りにしてきた“はじまり”という文字を、今度は自分の手のひらに書いた。バラバラに書かれたその文字は汗で滲み、まるで男の新たな人生のはじまりを祝う花火のように、男の目には映った。

  【続く】



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