散文ブログ『ちりぶみ』
数名による持ち回り創作ブログ。4のつく日(4・14・24)更新。
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    長野市在住。



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SAFTY LOVE   (2007/08/16)
21のBirthday 二人きりになって
君を祝うのは 一人じゃないみたい
吐息のメインディッシュ 楽しむ前に
済ませて来たの どこかでオードブル

僕のこと 大好きだという
言葉にウソは 見当たらない
独りにされるのが かなり苦手な
臆病な君が選んだシステムは

Safty love どんな時でもalright
次の恋が 保障されてる
(You're)Tasty Girl 君だけを抱きたい
この僕がそばにいるのに

スィートルームでは 無邪気にはしゃいでる
ミモザ片手の 愛しい君は
手渡した花束と僕に
くりかえしKissをくれるけど
もしもの時のために だれかをKeep Back
淋しがりやな君のコンセプトだね

Safty love どんな時でもalright
次の恋が 保障されてる
(You're)Tasty Girl 君だけを抱きたい
この僕がそばにいるのに

(In)Safty love わがまま娘してなさい
次の恋も逃げてゆくよ
(You're)Tasty Girl 君だけ夢見たまま
そのうち そばにいてやんない









「さあ、入って」
慣れた手つきでドアを開け、女を招き入れる。
言われるままに足を踏み入れた彼女は、その部屋の中を見るなり、歓喜の表情を浮べた。
僕はドアをゆっくりと閉め、オートロックがかかったことを確認する。
「すっごーい……」
きらきらと輝く瞳に映るのは、窓一面に広がる夜景。
「すごい、この部屋。もしかしてスィートルームってやつ?」
窓際に小走りで近寄り、興奮気味に口を開く。白いワンピースの裾ががふらりと揺れる。視線はまだ窓の外。
「さあ、どうかな?」
仕事帰り。
重いブリーフケースをリビングのソファに置き、上着の内ポケットから煙草を取り出す。彼女が少しむっとした表情を見せたのは、期待してた言葉とは違う答えが返ってきたから、だけではなさそうだ。
「さっそく一本?」
「まあ、いいじゃないか。誕生日なんだから」
「誕生日なのは、あたし」
苦笑いをし、咥えた一本に火を点ける。
ジッポの音が静かな部屋によく響いた。



彼女と出会ったのは、半年前。
僕にとっては、仕事にも慣れ、安定した時期だった。だからこそ、退屈で、安穏と過ごしていたのかもしれない。変わらない毎日を繰り返していた自分にとって、彼女はあまりにも若くて、刺激的だった。
とうに三十路を超えている僕から見れば、十以上も年下の彼女はまさにコドモだったのに。
いつから、こんな関係になったのだろう。
はじめは好奇心だった。
ハタチという若さで、社会に飛び込んできた彼女。何を聞いても新鮮で、そして、眩しかった。
出会って2か月で、交際を始めた。他に男がいることには気付いていた。しかし何も言わなかった。
ひと回り以上年齢が違う相手に、どちらも本気になるはずがなかった。
期間限定の、お遊びの恋。



「シャワー、浴びてくるね。お風呂も広い」
部屋の中を散々見て回り、ひとしきり無邪気にはしゃいだ彼女は、当然のようにバスルームへと消えた。
僕は行っておいで、と声をかけ、大きなガラスの灰皿にトン、と灰を落とす。右手に煙草を挟んだままで、改めて外を見渡した。見事な夜景。
彼女には曖昧な答えを返したが、ここは紛れもないスィートルームだ。
50平米以上もある広さのリビング。薄暗い部屋のあちこちにある間接照明。そして、隣の寝室にはキングサイズのダブルベッド。“お風呂も広い”らしい。
ぐるりと部屋を回ったあと、受話器を取り、9をプッシュした。
バスルームでは、まだシャワーの音が聞こえる。
「もしもし。頼んでおいたものを」
それだけ告げると、受話器を置き、短くなった煙草を灰皿に押し付けた。



「すっごく気持ちよかったよ!お風呂からでも夜景が見えるんだね」
バスローブ一枚を羽織り、わずかに濡れた髪をアップにして、彼女が出てきた。薄化粧が、少し幼い。
「あとで一緒に入ろうか」
「うん」
笑いながら、リビングの窓際の椅子に腰掛ける。
「何か飲みたいな」
「はいはい、お姫様。ただいま」
言うと同時に部屋のチャイムが鳴る。
若いベルボーイが運んできたのは、きれいなオレンジ色したカクテルと、両手いっぱいの花束。
テーブルのセッティングを済まし、二人分のグラスを置いたベルボーイは、「ごゆっくり」と言い残し、部屋から出て行った。
「はい、まずはこれ。どうぞ」
「キレイ。すごい、こんなに大きい花束久しぶり」
“初めて”と言わないところが彼女らしい。
両手で持たないと抱えきれないくらいの花束をしっかりと抱き、花の中に顔をうずめる。カクテルと同じ、オレンジ色をした花に唇を寄せ、香りをかぐ。その仕草がまるでキスをしているようで、思わず見とれてしまった。
「じゃあ次。それ置いてこっちおいで」
僕たちは向き合って席に着いた。テーブルには、二つのグラスと、オードブル。
「これ、ミモザ?」
彼女が顔を輝かせて聞く。
「うん、君の好きなオレンジ色」
グラスを持ち、ゆっくりと持ち上げる。
「21歳おめでとう」
傾けたグラス同士が軽くぶつかり、カチンと鳴る。
二人はにっこりと笑い、夜の始まりを告げる音を聞いた。



――乾杯から、おそらく2時間は経っている。
テーブルの上のメインディッシュはきれいに平らげられ、デザートがほんのわずか残っていた。手に持っていたミモザのカクテルグラスはいつの間にかワイングラスへと姿を変え、場所もリビングのソファに移動している。
すぐ前にあるプラズマテレビからは、見たことのない洋画が流れていた。
うっすらピンク色の顔をした彼女は、ワイシャツ姿の僕の右腕をしっかり掴んで離さない。
「大丈夫か?」
「へいき、へいき」
そう言いながら僕の首に両手を回す。
そしてキス。さっきから、これの繰り返しだ。
彼女は気付いているのかいないのか、この2時間で5回以上、携帯電話の着信を知らせるために彼女のカバンが振動した。電話だかメールだか知らないが、きっと他の男たちからの「おめでとう」だろう。
だが別になんとも思わない。
他に何人いようが、今、こうして彼女は一緒にいる。
彼女が生まれた日に、二人きりで。
確かな、この愛しい気持ち。
「ネクタイがじゃま。とって」
黒とグレーのストライプのネクタイをギュッと掴みながら、彼女が大きな瞳で見つめてきた。
「はい、はい」
おとなしく従い、ネクタイをほどく。シャツのボタンを一つ外すと、目の前には彼女の満面の笑顔。
「んー大好き」
そしてキス。
僕のことを大好きだと言う言葉にウソは見当たらない。彼女の素直なキモチだろう。
でも。
「ずっと一緒にいてね」
鎖骨下にうっすら浮かぶ、覚えのないキスマーク。
どうしても見え隠れする、彼女のコンセプト。
「独りはキライなの」
淋しがりやで、臆病。
もしもの時のためにキープしている、誰かの影。
この僕がそばにいるのに。
彼女を祝うのは僕一人じゃない。
右手で彼女の頭を撫でながら、左手でグラスに残っていた赤ワインを一口含んだ。
「あたしも、もっと飲む」
「ダメ」
「飲む」
そう言うと、僕の腕からするりとすり抜け、空のグラスにさらにワインを満たす。
「わがまま娘」
「いーの」
彼女はぷいとそっぽを向き、そのままふらふらとベッドルームへ移動する。サイドテーブルにグラスを置き、両手を広げてもまだ余る大きなベッドに仰向けに転がった。
その姿を見ながら、僕は残っていたワインを一気に飲み干した。

保障されている次の恋、か。
だとしたら今ここにいる僕はなに。
すぐ替えのきく使い捨ての恋人か。
本気にならない、なるはずがない、期間限定の恋。
寂しさを紛らわすための、利用手段。
そう、分かっていたのに。
そのはず、だったのに。
「ねぇ」
ベッドから僕を呼ぶ、彼女の声。
おもむろに腰をあげ、シャツの袖のボタンを外しながらゆっくりと彼女に近づく。
左手にしていたシルバーの時計を外し、彼女のグラスの横に置く。
ベッドに腰掛けると、ギシ、とスプリングがはずむ音がした。
「ねぇ」
もう一度、呼ぶ声。
何かを求める、甘い声。
「その前に」
両手を広げる彼女を制し、じっとその潤んだ瞳を見つめる。
「ひとつ質問」
またわずかにすねた表情を見せ、彼女が首をかしげる。
「なに?」
不思議そうに僕を見上げる彼女。
僕は彼女の右手首をつかみ、いきなり覆い被さった。
口を薄く開け、目を丸くしている愛しい君。
おかまいなしに、言葉を紡ぐ。
「俺の次に準備している男は、どんなやつ?」
一瞬だけ。
彼女はおびえた顔をし、しかしそれはすぐに微笑へと変わった。
もう、酔いの気配は見えない。
強い力を帯びたその目で。
「――ワインが飲めない人」
数秒間、視線が絡まる。
唇を耳元に近づけ、彼女をくるむバスローブの紐を右手でほどきながら、僕も笑顔で言葉を返す。
「そろそろ、彼の出番かもよ」
「うそ。だってあなたがいるもの」
「さて、いつまでかな」
「ずっと。絶対に」
言いながら彼女は、空いた左手で僕のベルトに手をかける。
唇を重ねた。

こんなこと、続けていたら次の恋も必ず逃げていく。
そのうち誰もいなくなる。
君だけ、夢の中のお姫様のまま。

でも。
その時は、また、僕を呼べばいい。
君だけを抱きたい、なんて言えないけれど。


唇を重ねる。
繰り返すごとに深く。

――吐息のフルコースはこれから。
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華吹雪   (2007/04/14)
あれほど見事に咲き誇っていた桜も、いつの間にかその心臓の形をした花びらで、地面を余すところなく埋め尽くすほどに散ってしまいました。
散っていく花びらたちは、枝から地上までという、短い、本当に短い空の舞台に立ちます。

その数秒の晴れ舞台。
最期の晴れ姿。
終わったら、もう桜としての命は絶たれるわけです。
だから、みんな必死なのです。

(見て)
(私を見て)
(これがもう最期だから)
(ほら、綺麗でしょう。あなたの肩に降りさせて)
(私はいつもこの木の下で読んでいた、彼の本の隙間に入りたいの)
(そうね、私はあの女の子の上がいいわ)

桜の花びらたちは、たとえ一秒でも長く、空中にとどまって自分の姿をアピールしています。

くるくる、くるくる。
はらはら、はらはら。

くるくる、くるくる。
はらはら、はらはら。

もうすぐ、ゴールです。
「桜の花びら」という僅かな生涯のゴール。
青空を背景に、人々の笑い声をBGMに、次々に舞い降りてくるその踊り子たちは、ゆっくりと、ふわりと地面に到着しました。
地上を敷き詰める、桜色のじゅうたん絨毯の一部となった、その小さな踊り子(だったもの)たちを、運動靴が踏みしめて行きます。
また、革靴が掻き分けます。また、ほうきに掃き集められます。
既に桜の花弁として用を為さなくなったものたちに、視線を向ける者は一人もいません。

(あんなに美しく踊ったのに)
(あんなに笑顔を増やしたのに)
(あんなに出会いを作ったのに)

それは、屈辱なのでしょうか。
理不尽な結末なのでしょうか。ただ、還る処へと戻っただけなのでしょうか。


───その答えは、誰も知ろうとはしません。



ハート咲ク   (2007/02/15)
今年もやってきたこの季節。
愛に飢えてる老若男女。
でっかいハートを咲かせるために。
さっそくお仕事開始です。



板チョコを細かく刻んで。
湯せんでとろとろになるまで溶かして。
でっかいハートの型に流し込んで。
固まるまで冷やして、型から取り出して。
まだよ。
まだ完成じゃないの。
さあ、ここからが大切な仕上げ!

このでっかい金づちで…。
パッキーン!!

もひとつ。
パッキーン!!

おまけにもひとつ。
パッキーン!!!


見るも無残なカケラたち。
きれいなハートはどこいった。
でもいいの。
もとをたどればでっかいハート。
『愛のカケラ』の完成です。


バラバラの一口大に砕いたチョコのカケラ。
きれいな紙に一つずつ包んで…。
最後にふっと息を吹きかければ。
さぁ、完成。
今年も『愛』を配りに参ります。


  ****


「よいしょっと」
それは、手のひらくらいの女の子。
茶色と赤のワンピース。
腕と足を元気に出して、でっかいでっかい袋を抱えました。
自分の背丈よりも何倍もでっかいその白い袋には、さっき作った、ちっちゃなチョコレートのカケラが入っています。
今日は2月14日。
一年に一回だけのお仕事。
愛を込めて作ったチョコレートを、これから配りに行くのです。
え?
まるでサンタクロースみたいって?
いえいえ、全然違いますよ。
だって、チョコレートをあげる相手は、小さな子どもではないのですから。
「さぁ、今年も行くわよ」
その手のひらサイズの女の子は、そう呟いて、白くてでっかい袋を抱え、愛に飢えた人間たちがざわめく街へと、ひらりと飛んでゆきました。


  ****


「うーん、今年もちっちゃなハートが多いわね」
街をふらっと一周しながら、女の子は言いました。
“ちっちゃなハート”とは、何のことを言っているのでしょう?
女の子の視線をよく見てみましょう。
空から見る人間たち……いろんな人がいます。
会社に行く男の人、自転車に乗るおばあちゃん、手を繋いで歩いてる親子、友だちと話してる女の子……。
みんな、胸の前に何か光っています。
赤いハートです。
ハート型のキラキラしたものが、みんなの胸の前にあります。
あ。
でも待ってください。
よく見ると、みんな、ハートの大きさが違います。
あの人はこぶし大くらい。
この人はドッジボールくらい。
その人は両手で抱えるくらいでっかいハートです。
「さぁ、ハートを咲かせに行きますか。待っててね。愛に飢えてるちっちゃなハートさんたち」
女の子が動き出しました。
小さな体で、速い速い。
目にも止まらぬ速さで、白い袋からチョコレートを出して、次々と配っていきます。
ん?でも全員に配っている……というわけではなさそうです。
どうやら、胸のハートがちっちゃな人たちだけに配っているようですね。
人間たちには、女の子の姿は見えていません。
あの人には机の上。
この人にはカバンの中。
その人にはズボンのポケットの中。
チョコレートを見つけたちっちゃなハートの持ち主は、その『愛のカケラ』をぱくっと口にします。
するとどうなるのでしょう?
あ、今、ちょうど女の子が、起きたばかりの大学生のところへ置いたみたいですね。
ちょっと様子を見てみましょう。
あらあら、この青年、なんとハートが親指大くらいしかありません。
よっぽど愛に飢えているのでしょうね。
さぁ、枕元に置いてある『愛のカケラ』に気づきました。
あくびをしながら包みを開けています。
なんのてらいもなく、『愛のカケラ』を口に放り込みます。
チョコレートの甘ーい香りが広がって、口の中でとろーりと溶けて……。
すると、彼の胸にあった、ちっちゃなハートが、ポンッと音を立てて、一回りでっかくなりました!
これがどうやら、彼女が言う「ハートが咲く」ということみたいですね。
そこに、電話がなりました。
なんと、別れた彼女からのようです。
何の話をしているのかまでは分かりませんが、嬉しそうな彼の顔を見ると、素敵なお話のようです。
なるほど。
手のひらサイズの女の子が『愛のカケラ』と呼ぶこのチョコレートには、ちっちゃくなってしまったハートを少しだけでっかくして、少しだけ愛を取り戻せる。
そんな不思議な力があるみたいです。


  ****


さて、街を一日中ひゅんひゅん飛んで、白くてでっかい袋の中身も、あとわずか…という時。
女の子の動きが止まりました。
「あーあ。消えそうなハートだわね」
視線の先には、30歳くらいのスーツ姿の男性です。
「しかたない、行ってやるか」
茶色と赤のワンピースの裾をひるがえし、女の子がひゅっと動きました。
「ねぇ、おじさん。そんなちっちゃなハートで、誰の愛に飢えてるの?」
突然、空から降ってきたそんな小さな姿に、男の人は目を丸くしました。
どうやら、彼には姿が見えるみたいです。
「え?君は誰?それに僕はまだ30歳だよ、おじさんはやめてくれよ」
ここは、その男の人が住んでいるアパートです。
ぐるっと見渡してみると、一人暮らしのようですが……?
「それは失礼。それにしても今日はハッピーなバレンタインだというのに、あなたのハート、消えそうよ?」
「僕のハート?消えそうって……そうか。実は僕は結婚していてね。今2歳になる男の子がいるんだよ。でも運悪く転勤で、可愛い盛りの時に、この通り単身赴任さ。妻からも最近は連絡もないし。バレンタインなんか、僕には関係ないよ」
「あら!一生独身みたいな顔してるのに、奥さんがいて男の子までいるの。じゃあ私も姿を変えてあげるわ。消えそうなハートの人だけ、特別サービスよ」
手のひらサイズの女の子は、そう言うと、ポポンッと音を立て、あっという間に姿を変えました。
おじさん…いえいえお兄さんの前には、かわいいかわいい5歳くらいの男の子がいます。
「へぇ!君がさっきのちっちゃな女の子かい? 変身までできるのか」
「へへ。すごいだろう?おじちゃんの子どもとどっちがかわいい?」
声や話し方まで、ちっちゃな男の子になっています。
「『お兄さん』。……君も確かに可愛いけれど、やっぱり僕の子の方が何倍もかわいいよ」
「ちぇ。まあ、いいや。ほら、おじちゃん、これあげる」
「『お兄…』ってもういいけど。ん?これは何?」
手のひらサイズの女の子が……おっと、今は普通の男の子ですが――でっかい袋からちっちゃな包みを取り出して、男の人に渡しました。
「いいから、食べてみなよ。『愛のカケラ』さ。ぼくからのプレゼントだよ」
彼はぱくっと口に放り込みました。
チョコレートの甘ーい香りが広がって、口の中でとろーりと溶けて……。
すると、彼の消えそうだった胸のハートが、ポンッと音を立てて、一回りでっかくなりました。
と同時に、玄関のチャイムが鳴りました。
「お届けものでーす」
見ると、その可愛らしい包み紙に、愛しい奥さんと、子どもの名前。
どうやら、さっきの『愛のカケラ』なんて、比べ物にならないくらい、でっかいチョコレートのようですね。
見事に、ハートが咲きました。



「やれやれ、素敵な奥さんで幸せ者ね」
また手のひらサイズに戻った女の子は、もう一度ひゅーんと街を飛んでいきます。
また一つ、『愛のカケラ』が白くでっかい袋からなくなりました。
でも、あと少し残っています。
「まだ、いるわね。消えそうなハートさん」
また、見つけたようです。
今度は一軒家の角の部屋に向かって、ひゅん、と飛んでいきました。
女の子は、窓から部屋に入りました。
さて、ここはどこでしょう?
「ちょっと!まだ夕方よ?寝るには早いんじゃない?」
狭い部屋のすみっこに、薄い布団をしいて、誰か寝ているようです。
突然のちっちゃな女の子の声にびっくりしたのか、ガバッと毛布をはいで、高校生くらいの男の子が顔を出しました。
「え?何?……っていうか誰?」
「『っていうか』あなたのハート、消えそうよ?寝てるくらいなら自分で愛を取り戻しなさいよ」
「消えそうなハート、だって?当たり前だろ。オレ、今日フラれたばっかりなんだぜ?」
「あらあら、こんなハッピーな日にお気の毒。じゃあ特別サービスよ」
手のひらサイズの女の子は、そう言うと、またポポンッと音を立てて、あっという間に姿を変えました。
そこには、三つ編みをした可愛らしい中学生くらいの女の子がちょこんと座っています。
「お前、でっかくもなれるのか。便利でいいな」
「そうよ。どう?可愛いでしょ。フラれたばかりのあなたの為に、可愛い女の子に姿を変えたの」
「まぁ、確かに可愛いけれど、オレ好みじゃないな。っていうかオレ、年下はキョーミないし」
「ま。フラれたばかりでなんてワガママなの。じゃあこれでどう?」
ポポンッ。
再び音を立てて、女の子は姿を変えました。
さっきちょこんと座っていたおさげの中学生が、今度は20代後半くらいの、真っ赤なワンピースを着たのオトナの女の人に変わっています。
ミニのスカートからすらっと伸びる足。
大きく開いた胸元からは、白い谷間がのぞいています。
「これで、どうかしら?これなら文句はないでしょ?」
うっとりした瞳で、男子高校生の顔を覗き込みます。
彼はびっくりした表情で、耳まで真っ赤になって、「はい」とだけ言いました。
「ふふ、大きな口をたたいてた割には照れ屋さんなのね。純な高校生って感じだわ」
くすくすと笑いながら、その女の子……いや、セクシーなオトナの女の人は、白くてでっかい袋から、ちっちゃな包みを一つ取り出しました。
「本当はここまでしないんだけど。反応が可愛かったから、大サービスよ。ほら『愛のカケラ』、食べなさい」
そう言うと、彼女は包みを開け、そのちっちゃな『愛のカケラ』を、赤い爪をした指でつまんで、男子高校生の口の中に放り込みました。
チョコレートの甘ーい香りが広がって、口の中でとろーりと溶けて……。
すると、男子高校生の消えそうだった胸のハートが、ポンッと音を立てて、一回りでっかくなりました。
同時に、メール受信を知らせる短い携帯の着信音。
画面をのぞくと、
【祝!バレンタイン♪かわいそうなキミにに合コンのお知らせ( '∇^*)^☆】
……どうやら、彼的には、これが愛のカタチのようですね。
見事に、ハートが咲きました。



「やれやれ、合コンで愛を取り戻せるなんてお手軽でいいわね」
また手のひらサイズに戻った女の子は、もう一度ひゅーんと街を飛んでいきます。
また一つ、『愛のカケラ』が白くてでっかい袋からなくなりました。
でも、あと少し残っています。
「まだ、いるわね。消えそうなハートさん」
また、見つけたようです。
今度は、街の端っこにある、ちっちゃなカフェに向かって、ひゅん、と飛んでいきました。
自動ドアをすっと開けて、店内に入り込みます。
街の端っこにあるカフェの、これまた端っこの席に、OLらしき30歳くらいの女の人が座っています。
どうやら一人のようですね。
「おねーさん。なぁ~に冷めたコーヒー片手に、店内のカップルを羨ましそうに見てるのよ」
突然のちっちゃな女の子の声にびっくりしたのか、その女性はコーヒーカップをがちゃんと置いて、目を丸くしました。
「え?あなた誰?それに私、別に羨ましそうに、なんてしてないわよ」
「ま、よく言うわね。さっきからずっと幸せそうなカップルばっかり眺めてるくせに」
「だって……世間はバレンタインで浮かれてるっていうのに、私は彼氏どころか好きな人すらいない。家に帰れば結婚はまだかって親がうるさいし…。今日はずっとここにいるわ」
「あらあら、消えそうなハートはそのためか。じゃあ私も付き合ってあげる」
手のひらサイズの女の子は、そう言うと、またポポンッと音を立てて、あっという間に姿を変えました。
今度は、その目の前にいる女の人と同じような年代で、同じような格好をした女性に姿を変えました。
「きゃ。あなた、でっかくもなれるのね。しかもちゃっかりコーヒー片手に座ってるし」
「そうよ。あなたの年恰好を真似てみたの。私のコーヒーは熱々だけどね」
「でも、なんか懐かしい、こういう感じ。友だちとカフェでおしゃべり、なんてこともすっかりなくなっちゃったから」
「『まあね。このくらいの歳になると、友達はみんな結婚しちゃって、中には子どもまでいたりして。会社はだんだん居づらくなってくるし……』でしょ?」
言いながら、その手のひらサイズの女の子……いや、今はOLでしょうか、湯気のたつコーヒーを一口すすりました。
「何もバレンタインは男性だけのもの、とは限らないわ。あなたの消えそうなハート、私がなんとかしてあげる」
「私のハート、消えそうなの?それはいやだわ。愛が欲しいもの」
「分かってるわよ。ほら、これ。『愛のカケラ』プレゼント」
女の人は渡されたちっちゃな包みを開けて、ぱくっと口の中に放り込みました。
チョコレートの甘ーい香りが広がって、口の中でとろーりと溶けて……。
すると、彼女の消えそうだった胸のハートが、ポンッと音を立てて、一回りでっかくなりました。
同時に、向こうから、ウエイターの格好をした男の人が近寄ってきました。
そして小声で彼女に話しかけます。
「あの、よく、この席に座ってますよね」
どうやら、思いがけないところに愛はあったみたいです。
見事にハートが咲きました。



「カフェで出会うなんて、ちょっとステキじゃない」
また手のひらサイズに戻った女の子は、もう一度ひゅーんと街を飛んでいきます。
また一つ、『愛のカケラ』が白くてでっかい袋からなくなりました。
おや?
その袋の中をよーく覗き込んでみると……残る『愛のカケラ』はあと一つとなりました。
「あと一つ!もうすぐ今年のお仕事も終わりだわ。さぁ誰にあげようかな?」
ビルの屋上の手すりにちょんと乗っかって、街全体をぐるっと見渡しました。
「よし、決めた!あの人にしよう」
そう言うと、また消えそうなハートの持ち主のところへと、ひゅん、と飛んでいきました。
辺りはもう暗くなる時間です。
街中にも人が少しずつ減り、家路に着く人たちが増えてきました。
最後の一人も、そんな人のようです。
暗くて狭い路地裏に、スーツでとぼとぼ歩く寂しそうな後ろ姿を見つけました。
「おじさん、だいぶお疲れのようね。もう、いい大人だってのに、そんな背中丸めて歩いててどうするのよ。」
突然のちっちゃな女の子の声にびっくりしたのか、その50歳くらいのおじさんは足をとめて、目を丸くしました。
「え?いきなり何だ?君は?」
「これから家に帰るんでしょ?もうちょっと楽しそうにしなさいよ。ハートも今までの人の中で一番見えにくいわ」
「ハートが見えにくい?……ああ、そうかもしれないなぁ。今の私には愛なんて無縁だから」
「寂しいこと言うわね。その歳じゃ家族もいるでしょ?子どもだって」
「いるさ。口もきいてくれない高校生の娘がね」
「女子高生か。難しい年頃だものね。しかたない、じゃあ特別にこんなのはどう?」
そう言うと、その手のひらサイズの女の子は、ポポンッと音を立てて、あっという間に姿を変えました。
そして、そのおじさんの前に現れた姿はというと……。
「どう?ぴっちぴちの女子高生よ。おじさんのムスメっていうのも、こんな感じ?」
「おっと。君はでっかくもなれるんだな。見事な変身っぷりだ。でも、うちの娘はそんな純粋でいい子そうな高校生じゃないよ」
なるほど、確かに目の前に現れた女子高生は、制服もきちっと着ているし、髪の毛も上品な黒だし、スカートの丈も、きちんと膝まであります。
「ふぅん、ってことはギャルちっくな感じか。そりゃお父さん苦労しそうだわ。もう一回変身し直してもいいけど、他の人に変な目で見られそうだから、ここではやめとくわ」
「うん、そうしてくれ。外でまであんなのは見たくないよ」
「ずいぶんな言いようね。ま、いいわ。はい、これあげる。『愛のカケラ』よ」
「『愛のカケラ』?なんだいそれ」
目の前の女子高生から差し出された、ちっちゃな包み。
「いいから食べてみてよ。少しだけ愛が手に入って、ハートがでっかくなるわよ」
「『愛が手に入る』?あぁ、今日はバレンタインか。チョコだったら私はけっこうだよ。今さら愛なんて欲しくないんだ」
「なんですって?愛がいらないって言うの?」
「ああ、そうだ。もう疲れたんだよ。娘だけじゃなくて、妻ともどんどん疎遠になっていく。家族とはほとんど口をきいていない。『愛』のおかげで余計な会話が増えるより、私は今の生活でいいんだよ」
そのおじさんはそこまで言うと、また同じようにとぼとぼと、歩き始めました。
女の子は焦りました。
おじさんの後に続きます。
「ちょ、ちょっと待ってよ。この『愛のカケラ』をあなたが受け取ってくれないと、私は今年の仕事が終わらないのよ」
「じゃあ他の人にやってくれ。私より『愛』に飢えている人たちなんて、他にいっぱいいるだろう」
「んもう!それじゃ私の気が済まないわ。私からの『愛のカケラ』を受け取らないなんてあなたが初めてよ。どうしても受け取ってもらうから」
女の子は道をふさぐように、ぐいっとおじさんの前に出ました。
おじさんはふぅっとため息をつきました。
「君はさっきから『愛のカケラ』と言っているが、一つ聞いていいかい?なぜ『カケラ』なんだ?どうやら君は私みたいにハートがちっちゃな人たちに『愛』を配っているようだけど、そんな意味のないこと。だったらそんな『カケラ』じゃなくて、きちんとしたハートの形のチョコレートを配ればいだろう。どうせだったら完全な『愛』をくれないか」
そこまで聞いた女の子、少し顔つきが変わりました。
両の拳がぐーになっています。
「『意味のない』ですって?あなたこそ何も分かってないわ。『愛』で作った完全なハート型のチョコレートを私が与えてしまったら、本当の『愛』は誰から与えられるの?『愛』は絶対に身近にあるものよ。みんなそれに気づいてないだけ。私がわざわざ『カケラ』をあげるのは、それに気づいて欲しいからよ。『カケラ』は単なるきっかけにすぎないわ」
「ふうん。なるほど。でも私はやっぱりいらないよ。今さら『愛』なんて必要ないからね。それに私にきっかけをくれても、きっと身近に『愛』なんてないよ」
「ウソよ、そんなの。『愛』がないなんて人、いるわけがないわ」
「どうしてそんなこと、言い切れるんだい?」
「だって」
そこで女の子は、一度言葉を切りました。
そして、彼の胸を指差し、強い口調で続けます。
「だって、あなたのハート、まだ光ってるもの」
おじさんははっとしたように、その女の子の指先を見ます。
見えないはずの赤いハート。
ここにあるはずの、光るハート。
「すっごくちっちゃいけれど。すっごく弱々しいけれど。ハートがある以上、『愛』はあるのよ。そしてそれをでっかくできるかどうかは、その人次第なの。このままだとおじさんのハート、本当にいつか消えてなくなってしまいそう」
女の子の、必死で真っ直ぐな言葉が伝わったのでしょうか。
おじさんの表情も、少し明るくなりました。
さっきまでは微塵も見られなかった笑顔が、ちらりと見えるようになったのです。
「……ありがとう。私も歳をとったものだ。人の言葉が素直に聞けなくなっている。娘と同じ年頃の君に諭されるとは、思っても見なかったよ」
女の子の本当の年齢は、もっとずっとずっと、おじさんよりずーーーーっと上だけれど、それは言いませんでした。
「それ」
さっきからずっと差し出されていたちっちゃな『愛のカケラ』を、おじさんが見つめました。
「食べてくれるのね?」
嬉しそうに女の子が言いました。
「うん、でも一つお願いがあるんだ。この『愛のカケラ』、『愛』じゃなくて、『勇気のカケラ』に変えられるかい?」
それは、とても意外なお願いでした。
でも、そのおじさんの顔がすごく優しくて、女の子は首を縦に振りました。
「……できるわ。でも、『愛のカケラ』よりも、もっともっとちっちゃなカケラになるけど、それでもいい?」
「もちろんだよ。ありがとう」
「でもどうして『勇気』なの?『愛』でいいじゃない」
「君が言ったじゃないか。『愛』がない人なんていない。それに気づいてないだけなんだって。だから私は家族の『愛』を確かめてみようと思う。今日、思い切って話しかけてみるよ。でも、それには少しだけ『勇気』が必要だ。私の『愛』のために、ちょっとだけ手助けを頼むよ」
「分かったわ。じゃあ」
女の子はうなずくと、手にしていた『愛のカケラ』に、強く息を吹きかけました。
すると、ポポポンッと音がして、中のチョコレートが、少しだけ姿を変えました。
見ると、ちっちゃなアーモンドのカケラが上にちょこんと乗っています。
「チョコレートには、何も入ってないわ。ただのチョコレートよ。そのアーモンドのカケラが、『勇気のカケラ』」
もう一度、女の子は両手を差し出しました。
ちっちゃな手のひらに、ちっちゃなチョコレートが乗っています。
そのちっちゃなカケラを、おじさんはぱくっと口の中に放りこみました。
「ありがとう」
おじさんはそれだけ言うと、また、元の道をまっすぐ歩き出しました。
出会う前のような、丸い背中ではありません。
明日になれば、消えそうだった赤いハートも、きっと、見違えるほど、でっかく光っていることでしょう。
『愛』がない、なんて人はいないのですから。


  ****


女の子は、また手のひらサイズに戻って、空になった白くでっかい袋を抱えて、高く高く飛んで行きました。
どこに行ったのかは、わかりません。
でも、きっとまた来年、この街に現れるはずです。
ちっちゃな『愛のカケラ』を配りに。
そして、でっかいハートを咲かせるために。





今年、あなたの元に、『愛のカケラ』は届きましたか?

届いていない人、なぜかって?

それはきっと、あなたの身近に『愛』があるからですよ。


I’m in love?   (2006/12/15)
あなたの影が夜ごとにあらわれて
はずかしながら睡眠不足の今週の僕

2、3回少々口きいただけで お互いにまだなにも知らない
始まりそうで始められないこんな関係 どう言えばいいの

I’m in love? 笑いごとじゃない
雪崩がおきそう
その声がこの胸の奥の鐘を鳴らしてしまった

人生にもちょっとずつ経験を積んでゆけば
やみくもに前にばかり進めなくなる

カレンダーがぱらぱらめくれていって
いつしか興奮も冷めるだろう
でももし今日という日でこの世界が
終わるとしたらみんなどうするの?

I’m in love? だれにも言えない
自信もぐらつく
ありえないことばかり想像しては夜が更けてゆく

なんだろう? 済みきった声に
真っ直ぐ立ってらんねぇ
I’m in love? だれにも言うまい
堤防は決壊しそう
今ならまるで新しい自分になれそうな気がする
始まるかもしれない


Words by B’z「I’m in love?」





――ああ、もう、また。
ギュッと目を閉じて、布団を頭からかぶる。
これで、今夜何度目の寝返りだろう。
体は疲れているはず。でも頭が眠くないって言っている。
寝なくては、と思えば思うほど、意識が鮮明になってくる。
瞳を閉じても暗闇にならない。見えないはずの彼女の姿。
深夜2時。聞こえないはずの、彼女の声。

こんな夜が、もう一週間も続いている。

  *****

「はよ。なんだ、具合悪いのか?」
 机に突っ伏して、朝のクラスの雑踏を聞いていた僕の上に、遠慮なく降りかかる声。
 僕の前の席に鞄をかけ、ゼンジは朝からだるそうにどっかと腰をおろした。
 本名は善治と書いてヨシハル。去年からの付き合いだが、少し口が立つことを除けば、なかなかいいやつだ。
「いや…眠いだけ」
 ホームルーム開始のチャイムまであと5分。願わくばゆっくり寝ていたかったが、こうなるとそうはいかない。
 僕はあきらめたようにのっそりと体を起こし、あくびと同時に口を開く。まくら代わりにしていたマフラーをたたみ、すぐ後ろのロッカーに突っ込む。
 クラスには、いつの間にかほとんどの生徒が登校していたようだ。
「はっ。さすが受験生。テスト勉強に勤しみ…なわけないか」
「んなわけねーよ。……ちょっと、睡眠不足で」
「だよなぁ。とゆーことは今日のライティングの宿題ももちろんやってないよねぇえ?絶対ここはテストに出るぞ~って言ってたやつ」
「ああっ!」
「はい、ザンネン」
「たのむ、見して!」
「Aランチとから揚げ棒」
「Bランチとフライドポテト!」
「交渉決裂。サヨナラ~」
「ちょっと待ったぁ~」
 そんなやり取りをしている間に、チャイムが鳴る。睡眠不足の原因を聞かれないことに、ほっとしたような、がっかりしたような。
 ガラリとドアを開けて担任が入ってくる。

 今日もまた、いつもと同じ一日のハジマリ。

  *****

 彼女と出会ったのは、ほんの1週間前だ。
 普段図書室なんて行かないのに、今は完全テスト前。年に5回、図書室が混雑する期間だった。みんなの目当ては自習机…ではなく、ドア横にある、たった一台のコピー機。この時期だけは、ここぞとばかりにその存在が際立っている。堅実に勉強しに来る奴より、他人のノートをコピりに来る奴の方がよっぽど多いのだ。
 僕も例に洩れず、その一人だった。
 散々ゼンジに頼み込んだ結果、から揚げ棒一本でノートコピー権を獲得し、一人長蛇の列に並んでいた。
「プリント一枚足りないよー」
「ここもテスト範囲だっけ?」
「あ、こないだのとこ書いてないじゃん」
 テスト前になると決まって繰り返されるこんな会話。一人でいると、嫌でも耳に入ってきてしまう。
そのたびに考える、いろんなこと。
 みんな普段からやってないないなダメじゃん、って僕もだけど、受験生とは思えないな、こんなの、大学なんて早すぎるよ、いきなり将来の夢とか言われても、今こんなせかせか勉強してることってはたして意味があるんだろうか、点数が1点あがったからって――。
 ここらへんまでぐるぐる考えて、ようやく僕の番がきた。よかった。これ以上考えるとせっかくのノート獲得権が無駄になってしまうところだった。
 おとなしく、コピーして勉強しよう。
 コインを入れる。
 ノートを開いてセットする。
 数字の「1」ボタンを押して、「スタート」ボタンを押す。
 ゼンジのこぎれいなノートの写しが、ガーっと出てくる。
 はずだった。
 出てくるはずの紙は、「ガガ…」と、どうしようもなくいやな感じの音と共に、機械の中に飲み込まれた。「まさか」と思って見たディスプレイには、案の定「紙詰まりです」の容赦ない文字。サッと、冷たい汗が流れた気がした。後ろを見ると、まだまだ途切れそうもないノートたち。慌てて紙が出てくる箇所を見てみるが、なんら変わったところはない。なんのボタンを押しても液晶画面は変化ない。すがったように見たカウンター。あいにく書架整理のため、司書の先生は不在。
そろそろ、後ろからのプレッシャーが感じられる。
 ああ、くそ、なんで学校にコピー機が一個しかないんだよっ。
「――あの、大丈夫ですか?」
 焦りがピークに達したその時、右隣から聞こえた天の声。
 え、と思って見ると、肩までの髪をふたつに縛った、少し小柄な感じの女の子が立っている。
「えっ……と、詰まっちゃったみたいで」
 僕がそれだけ言うと、その子はすっとコピー機の前に来て、
「こっちを見るんです」
 と言って、給紙トレイをガタンと開けた。それからは見事な手際だった。詰まった紙を取り除き、残りの紙も整頓しなおしてセットし、なんらかのボタンをピピッと押して、
「なおりました」
 とにっこり僕に笑いかけた。
 今思うと、その笑顔とその声が、僕のこの奥の鐘を鳴らしてしまったのだ。
 僕は小さく、
「あ、どうも」
 と言い、再びコピーを試み始めた。わずかな胸の高揚を抑えつつ、これが終わったら、改めてお礼を言おう、と思いながら作業を続けた。
 ところが、僕のコピーが終わった頃には、彼女の姿はすっかり消えていた。
 図書室には相変わらず人が多い。
 覚えているのは、制服の上着についていた、赤い校章。

  *****

 翌日、僕はゼンジには内緒で、再び図書室へと足を運んだ。
 会いたい、とかじゃない。ただ、昨日きちんとお礼を言っていなかったから。
 本当に、一言だけ、お礼を。
 彼女はすぐに見つかった。
 昨日と変わらず人で賑わっている中、彼女は一人黙々と机に向かっていた。
 コピーだけじゃなくて、きちんと勉強している子もたくさんいるんだな…と改めて思いつつ、軽く息を吐く。よし。
「あの」
 ここは、図書室。意識しなくとも、小声になってしまう。突然降ってきた僕の声に反応し、一瞬の戸惑った表情を見せた彼女だが、すぐ「あ」という形の口を作った。
 彼女の言葉を待たず、話しだす。
「昨日はどうもすいません。ちゃんとお礼言おうと思ったんだけど、いなくなっちゃって。あの、ホントにありがとう」
「あ、大丈夫ですよー。わざわざすみません」
 彼女もまた、周りに聞こえないような小さな声で答えた。
 胸の前で手を振って、昨日と変わらない笑顔で。
 さて。
 用は済んだ。これ以上話すこともない。これでさよならだ。
 でも。
 何かないか。何か話すこと。探せ。なんでもいいから。ほら、早く。
 自分の声が聞こえる。なかなか立ち去らない僕を、彼女がこくっと首をかしげて不思議そうに見ている。
 その時ふと目に入った、胸に光る赤い校章。うちの学校は学年ごとに校章の色が違う。
「――2年生?」
 たった一言。搾り出したようなその言葉に、彼女はほんの一瞬止まり、
「あ、はい」
 と頷いた。
 限界だ。ここまでだ。僕は、じゃあ、と呟くと、そそくさと図書室を後にした。

  *****

 あれから、一週間。明日から、二学期期末テスト。こんなことを考えてる場合じゃないのに。受験だって控えているのに。
 あの日から、彼女の夢を3回くらい見た。
「たまにはポテトでもいっか」
 結局、間をとってBランチとフライドポテトで手をうったゼンジが、ざわついた食堂で夢中でポテトをむさぼっている。その横で、必死にノートを写す僕。全く、我ながらゼンジがいなかったら卒業も危うかったのではないかと思う。恥ずかしながら、お世話になりっぱなしだ。
「よっし終わった。マジ助かったわゼンジ」
「感謝するなら今からから揚げ棒プラスでもいいぜ」
 その言葉を見事にスルーし、丁重にノートをお返しする。ゼンジは最後に残った細かいポテトを一気に口の中に流しこみ、空っぽの袋を僕に押し付けながら席を立った。僕もそれに続く。
 袋を丸めてゴミ箱に入れ、教室へと向かう。まだまだ一日は終わらない。これから午後の授業だ。
 さみい、さみいと言いながら階段を上がる。上から聞こえてくる数人の女子の声。
 その女子たちとすれ違う踊り場で、思わずはっ、とした。
 彼女だった。
 迷った。声をかけるべきか。そのまま素通りするか。
 彼女も僕に気づいたようだ。刹那、視線が交わる。
 しかし。
 すっ、と。二人はすれ違った。他人だった。僕と彼女の間には、何も、ない。ただ、コピー機を直した人と、直してもらった人だ。たった2、3回、口をきいたことがあるだけで、お互いにまだ何も知らない。挨拶をする間柄でも、ない。
 一言「こんにちは」と声をかければ、もちろん快く返事をしてくれるだろう。でも、そのたった一言がどうにも難しい。始まりそうで始められない、こんな関係をどう言えばいいのだろう。――知人。いや、それ以下か。
「今の女子、なに?知り合い?」
 意外と鋭いゼンジがすかさず聞いて来た。わずかな動揺を隠しながら、そしらぬ顔で言葉を紡ぐ。
「なんで。今の2年だろ。知り合いなんていないよ」
「そっか。お前が知ってる女子の方が珍しいか」
 べつだん、興味なさそうにゼンジが笑う。くそう。笑い事じゃない。
 いろんな感情が渦巻いて、今にも雪崩がおきそうだ。もちろん、そんなことだれにも言えないけれど。

 *****

 期末テストが終わった。
 結果は良くも悪くも、という無難な、というか微妙な結果に終わり、担任からは散々発破をかけられた。あとは余計なことを考えずに受験勉強に専念しろ。この二ヶ月が人生の勝負だ。最後まで気を抜かず前進して行け。――とりあえず、はい、はい、とおとなしく聞いていた。
 「人生」か。まだ18年足らずしか過ごしてない人生だけれど、それなりに経験も積んできたつもりだ。人並みに勉強もしたし(今が一番しなきゃいけない時期だけど)、人並みに誰かを好きになったりもした。その経験の中で、前へ進むことが必ずしも成功に繋がるとは限らないということも学んだ。
 テスト中は一切彼女に会っていない。このまま日にちが経って、一ヶ月が過ぎて、カレンダーがぱらぱらめくれていけば、僕の中に残るこの興奮も冷めていってしまうのだろうか。始まらない関係だったら、いっそのことそうしてしまおうか。
 でも、前進が成功に繋がらないことはあるかもしれないけれど、成功は前進なくしては生まれない。このまま時が経てば、きっと彼女とのつながりはなくなってしまう。あのコピー機の前で出会ったこと自体が削除されてしまう。
 テストが終わったその日、ゼンジから一緒に帰ろう、との誘いを受けたが、担任からの呼び出しを理由に断った(あながち嘘ではない)。
 なんだか、むしょうにあの場所に行きたくて。

 さすがにテストが終わったその日は、この前とはうって変わってガランとしていた。もちろん、会えることを期待していたわけではない。テスト後だ。ゼンジたちのように寄り道の計画を立てながらすっきりと帰るのが普通だろう。でも、今日はまっすぐ帰るのは無理だった。初めて会ったあの場所に、ただ来たかった、それだけ。

 だから。
 心臓が止まるかと思った。
 初めて声をかけたあの場所に、彼女は、いた。
 あの時みたいに参考書にかじりついたりはしていない。
 机にむかっているものの、視線はどこか浮ついている。
 ほおづえをついているその横顔は、まだどこか迷いがあった僕の心を決めるのに十分な表情で。

 どきっとした。
 彼女が、僕に気づいた。
 彼女が席を立ち、歩き出す。近づいてくる。  
 コピー機の横で呆然と突っ立っていた僕は、必死に言葉を探した。
 でも、出てこない。
 僕が今、彼女に一番伝えたいことは。

 僕の前に来た彼女が、丁寧な動作で笑って会釈。
 ゆっくりと口を開く。
「……ここに来れば、会えるかと思って」

――なんだろう。
 澄み切った声にまっすぐ立っていられない。
 そうか。
 それは、僕が彼女に言いたかったこと。探して探して、ようやく見つかった言葉。
 一週間以上前から、もやもやしていた僕の感情の堤防は、今にも決壊しそうだ。
 にこっとした彼女の笑顔は、初めて会った時となんら変わりなく。

 今なら、新しい自分になれそうな気がする。
 彼女と会う前の自分から、新しい自分へ。
 それは、どんな楽しいことよりも、わくわくするもの。
 切れそうな糸のように、細い細い関係だった僕たちが、ようやく始まるかもしれない。

 彼女のふわっとした笑顔が、愛しい。

  


空っぽの明日   (2006/10/14)
 ――やってられるか。
 月曜日、夜の10時。
 ひと気のない路地で、くたびれたスーツ姿の男は呟いた。
 ――やってられるか。我慢できない。
その顔は憤怒と落胆と失望で強張り、まだ20代半ばだろうと思われるその風貌は、疲労しきった40代に見える。保険会社に勤めている男は、上司のミスの尻拭いをさせられ、会社全体に大問題を起こした。右手に持ったアタッシュケースが、今日はいつもよりずっしりと重い。
24時間営業のコンビニエンスストアに入り、カップ麺とおにぎり一個を買う。迷ったが最後にマイルドセブンを付け足した。
 ビニール袋を下げ、とぼとぼ歩くその先に、おあつらえ向きの小石を見つけた。ちょうど歩幅が合い、男は右足でコン、と蹴飛ばした。小石は2メートルくらい先にうまい具合に転がった。男は歩を止めない。また右足の先にさっきの小石がある。今度はちょっと力を弱めて突付くように軽く蹴った。力が弱かったのか、少し左に道筋が逸れた。だんだんおもしろくなってきた。
 子どもの頃は、こんな小石一つで何時間でもサッカーが出来たものだ。
 単純で、くだらないこんな遊びに、喜びを見つけ、いつの間にか没頭していた。車道に入ったら、負け。自分で決めたルール。仕事のルールも、これくらい単純だったらどれだけ楽だろう。上司も複雑な派閥も関係ない、
 でも、単純な仕事ほど退屈なのも分かっている。
 どれだけ文句を言っても、辞められないのも分かっている。
 それだけに、腹が立つ。
 結局は妥協か。
 
 男は小石を蹴り続ける。
 モヤモヤした霧みたいなもので頭がいっぱいで、不覚にも男は、すぐ後ろを歩く親子連れに気付いていなかった。自分を含めた、3人の足音に混じって、小声でしている親子の会話が耳に入った。
「いい歳して、石コロなんて蹴って歩いて」
 いかにも侮蔑を含んだその女性の声に、男はふと、視線だけを軽く後ろに流した。
「オトナでもあんなことするんだね、おかあさん」
「みっともないから、ヨシくんはあんな大人になっちゃダメよ」
 その親子が自分の話をしていると気がついた時、カァッと、なんとも言えない恥ずかしさと屈辱感が全身を駆け巡った。
 石蹴りゲームはそこで終了。羞恥を消し去るように、男は足早に歩いてゆく。
――お前らに何がわかる。学校で勉強して塾で勉強して家でも勉強して。俺も立派な大人になろうと思って勉強してたんだ。今いくら必死に勉強したところで、お前もいずれ俺になるんだ。今勉強していることなんてこれっぽっちも役に立たないってことが、今に分かるさ。
 そこで、母と息子の会話は途切れた。どうやら、道沿いに自宅があったらしく、重い扉を開く音に続き、「ただいまー」という元気な声が遠く後ろから聞こえた。
 
 男はつい足を止め、後ろを振り返った。今しがた閉じられた重厚な扉をじっと見つめる。その一軒家の窓という窓から光が洩れはじめた。
 「――ちくしょうッ」
 胸の奥から搾り出すようなその声が、暗い路地にむなしく響く。ビニール袋を抱え、男はさらに暗い闇へと走り出した。

 月曜日、夜の10時。


Warp   (2006/08/14)
3年ぶりに話したって 違和感ないなんて
意外と僕らたいしたもんだ 感心しちゃうよ
見違えるほどに 人が成長するっていうのは
やはり時間がかかるもんだ やんなっちゃうよ

最新のNews 移り変わっても
笑える視点(ポイント)は同じ

ほんの最初の一声で スイッチが入り
時間も距離も あっという間に縮んでゆく
君さえよけりゃ あの時の答えを今言うよ
「きらいなわけないだろ」

忘れ物とりにきただけなのに もう2時間
そういう意味じゃ 少しだけ違和感あるかもね
今ごろCD1枚っていうのも変だし
そんなにじっと見つめるのも いってみれば変

ショートヘアは はじめて見たけど
シャツの色は 今日も白い

ほんの最初の一声で スイッチが入り
オリジナルの香りが 体かけめぐる
しびれながら思わず溜息がもれる 気づいたかい?
「きらいなわけないだろ」

要するに感謝の気持ち忘れて
僕ら 離れ離れになった
もしかしたら 忘れ物ってそれじゃないの?

ほんの最初の一声で スイッチが入り
時間も距離も あっという間に縮んでゆく
涙のあとさえもう 見えないその顔に
急に懐かしくて新しい微笑みが浮かぶ
君さえよけりゃあの時の答えを今言うよ
「いっしょにいてほしい」
「ずっと いっしょにいてほしい」

《Words by B’z「Warp」》






【久しぶり。そういえばまだCD返してもらってなかったよね。今から、行くから。 エリ☆】

 日曜日の午前中。
 けたたましい着信音に邪魔をされ、おぼろげな頭で無意識に開いた薄い携帯電話。くっつきそうになる瞳を無理やりこじ開け、ディスプレイに並べられた小さな文字を追っていく。
 一気に目が覚めた。跳ね上がるようにして、ベッドから起きる。まず、今何をするべきかたっぷり1分考えてから、バスタオルをひっつかんで狭いユニットバスへと駆け込んだ。


「お久しぶり、暑いけど、元気だった?」
 めったに鳴ることがない部屋の乾いたチャイム音のあとに、3年ぶりに聞くその心地よいアルト。
「あぁ。そっちこそ」
 あまりにも普通に話すものだから、自然と僕もつられて挨拶を交わす。
 かつて彼女はこの部屋に何回くらい来たのだろう。大学3年の時から付き合い始め、卒業しお互い就職してから1年足らずで僕たちは終わった。就職と同時に独り暮らしを始めたから、実際この部屋に来たのは数回くらいかもしれない。
 それでも、自然に靴を脱ぎ、自然に上がり、自然に(勝手に)冷蔵庫を開ける彼女を見ると、3年間の空白が嘘のようだ。まるで、昨日の夜普通にさよならしたみたいに。
「これ、さしいれ」
 差し出したビニール袋の中に、ジュースやらアイスやらお菓子やら。アイス、冷凍庫入れとくねと呟く彼女の手には、見事に僕の好みのものばかり。
「お、さんきゅ。…ってなんだよ、甘いのばっかりじゃん」
「文句言うならあげないよ?」
 キュッと唇を尖らせて、下から見上げてくるその顔は、あまりに久しぶりすぎて、思わず言葉を失った。


「部屋。あんまり、変わってないね。もっと汚くしてるかと思ってた」
 部屋の真ん中に、小さなテーブルが一つ。それを間に挟むようにして、僕たちは座っている。エリはキョロキョロと部屋を見渡し、そんな感想をもらした。
「お前が来るまでのちょー短い時間で、必死に掃除したんです。時間が足りなくて、まだ散らかってるけど」
「なるほどねぇ。でも、ああゆうものは真っ先に片付けるべきなんじゃないの?」
 え、と思って振り向く。にやりとした顔でエリが指差したその先は。
「げ、お前先に言えよ」
 うっかり、机上の片付けを忘れていた。慌てて“ああゆうモノ”たちをまとめ、机の引き出しの奥深くに入れる。昨日堪能した、桃色のDVD。
「好みは変わってないみたいね。ロングヘアのお嬢様系」
「うるせーよ」
 くすくすと、彼女が笑う。

――髪、どうしたの。 
 今日、エリを初めて見た時に、思わず声に出しそうになった。少なくとも僕が知るエリは、背中まである色素の薄い長い髪だった。いつもこの時期になるとアップにして、後れ毛をピンでまとめていた。それが、今、目の前にいる彼女は。
「エリ、ショートにしたんだな。初めて見た」
 僕のその言葉に笑顔を止め、少し驚いたような顔をして、彼女は控えめに「うん」、とうなづいた。
「夏らしくていいじゃん、涼しげで。似合ってる」
 その、白いシャツも。
 最後の言葉は口にしなかった。ショートヘアは初めて見たけど、シャツの色は今日も白い。エリに、一番似合う色。

 別れてから3年の間、僕たちは一切連絡をとらなかった。電話はもちろん、メールでさえも。お互いさよならを告げたあの夏の日から、別々の道を歩いてきた。そのつもりだ。でも、なんだろう。どうしてだろう。今、こうしてエリと話している。普通に。3年ぶりに話したって、違和感ないなんて、意外と僕らたいしたもんだ、感心してしまう。
「……で、CDだっけ」
「え?ああ、うん…」
「ちょっと待ってて。確か…まだあるはず」
「ねぇ、その前にお茶くらい出して」
 遠慮がない彼女の言葉。3年前ならここでケンカになるところだ。でも、今日は。
「はいはい。オレンジでいいですか、お嬢様」
「いいでーす」 
 手を挙げて、にっこり。くそう、不覚にも、可愛いと思ってしまう。

 オレンジジュースを二つ、グラスに入れてテーブルへ。コースターを敷き、一つを彼女の前へ置く。「ありがとう」と言いかけた彼女の口元が、ふいに違う言葉へと変わる。
「……まだ、持ってたんだ」
 懐かしさと驚きと、その目に映る微かな喜び。その揺れる瞳の色は、安心感とも見てとれた。僕はジュースを一口飲み干し、エリが持つそのグラスと同じ柄のグラスをゆっくりとテーブルに置いた。いつだったか、一緒に買ったおそろいのコースターと、ペアグラス。
「わざと割るわけにもいかないからな」
 上手に嘘を付く術(すべ)は、社会人になってから学んだ。そっけなく口をついて出た言葉は、「捨てられるわけないだろ」の裏返し。今、この場で出していいものか、少し迷ったけれど、彼女の態度があまりに自然で、僕も自然に二つのグラスを手にとっていた。
 エリは、懐かしそうにじっとグラスを見つめている。
「…で、CDだっけ。ちょっと待ってて」
「あ、いいの、そんな急がなくても。それより、仕事はどう?」
 立ち上がろうとした僕の腕を取って、少し強めに引き寄せる。そんな彼女の動作に抗えるわけもなく。僕はおとなしく定位置に戻った。

 それから、僕たちは色んな話をした。仕事のこと。学生時代のこと。共通の友達のこと。最新のニュースのこと。付き合っていた時のことも、少し。最初は、違和感なしに普通に話せる僕たちに自分で感心していたものだが、こう長く話していると、やはりなんだか違和感が生まれてくる。それは、話し方だとか、相手の反応だとか、そういうものじゃない。ただ忘れものを取りにきただけなのに、もう2時間が経っている。その、少しばかりの違和感。 
 あの頃と話題が変わっても、最新のニュースが変わっても、自分をとりまく環境が変わっても、笑える視点(ポイント)は同じ。そんなことがなんだかとてつもなく嬉しかった。
「変わらないね」
 ふと、エリが呟いた。
「やっぱり、変わってない」
 僕の顔をじっくりと見つめながら、ゆっくりとした口調で噛み締めるように言う。
「な…んだよ。お互い様だろ。3年しか経ってないんだ。そんなに急に変わらないよ」
「3年しか?」
 あどけない顔でますますじぃっと見つめてくる彼女の視線に耐え切れず、僕はごまかすようにぬるくなったジュースをすすった。
「そう。この歳になれば見違えるほど成長するってのはもっともっと時間がかかるもんだろう」
 ――無言。何も言わず、彼女はただ僕を見ている。
 僕は沈黙を恐れ、今朝メールをもらったときからずっと抱いていた疑問をつい口にしていた。
「何で、今ごろCD一枚?」
 突然のその質問に、少しムッとした表情を見せ、ようやく僕から視線を外した。あ、と思ったその瞬間、エリはものすごい速さで僕の隣に移動し、ガバッと僕の背中に両腕を回してきた。驚きのせいで言葉を発する余裕もなく、彼女の重さでバランスをくずす。そのまま後ろに倒れこんだ形になった僕は、反射的に彼女の腰に手を回していた。
「……分からないの?」
 僕の耳元で、僅かな怒気と、緊張と、そして確かな愛しさが交じった彼女の声が響く。
 一言。
 その、ほんの最初の一声でスイッチが入った。
 彼女の重み。香り。ぬくもり。それは、離れていた3年もの間、どれだけ焦がれたものたちだろう。考えるより先に、体が動いた。ゆっくりと、腕を背中に回す。その小さな体を包み込む。今はもう、あの頃の長い髪はないけれど。柔らかい茶色の髪は僕が撫でたものではないけれど。でも。変わっていない、あの時の彼女が、今、ここにいる。
 3年離れていたなんて、嘘みたいだ。時間なんて、距離なんて、こうして会って触れてしまえば関係ない。あっという間に縮んでいく。今、間違いなく、彼女は僕の腕の中にいる。
 3年前、僕たちは、お互い嫌いになって別れたわけじゃない。別れ話なんて、必要なかった。
(どうして、そういつも勝手なの)
 あの頃は自分しか見えていなかった。
(言ってくれなきゃ分からないんだよ…)
 隣にいるのが当たり前に思っていた。
(私に、どうして欲しいの?)
 素直に、なれなかった。
 
 彼女が僕にしてくれること。
 彼女が僕のためにくれる言葉。
 彼女が、隣にいてくれること。
 その「奇跡」は、いつしか「当然」に変わっていた。彼女を失ってから、初めて気付いた自分の傲慢さ。嫌悪と恥ずかしさで吐き気がした。 
 『傍にいてくれて、ありがとう』――言えなかったコトバ。
 もしかしたら、君の忘れ物って、これかもしれない。
(―――――の?)
 どうしても答えられなかった、君の質問。君さえよければ、あの時の答えを今、言うよ。
 腕に力をこめる。ギュッと抱きしめる。
「ん……」
「ごめん、もう少し」
 僕の肩が少し濡れている。今はそんな涙さえ愛しくて。
 彼女の香りが僕の全身を駆け巡り、思わず溜息がもれる。君に気付かれないように、そっと。
「エリ」
 名前を呼んだ。ただ、それだけのことなのに、愛しさが溢れてくる。僕の声に反応するように、エリの体がピクリと動く。
「いいよ、そのままで」
 自分でもびっくりするくらいの、優しい声だった。一度だけ、ふわりとその髪をなでて、耳元に囁く。
「ここに、戻ってきてくれて、ありがとう」
「いつも傍にいてくれて、ありがとう」
「俺のこと、想っていてくれてありがとう」
 エリの目を見ながらだったら、とても言えそうにない言葉。顔から火が出るほど恥ずかしい言葉の羅列だったけど、僕が今、どうしても言いたいこと。言わなくちゃいけないこと。
 そして、もう一つ。
「――エリのこと」
 一度、言葉を切る。意を決して。
「きらいなわけないだろ」
 言った途端にエリはパッと体を離し、まんまるの大きな瞳でまっすぐに僕を見つめてきた。
 まだ少し濡れているその瞳は、3年前とまったく変わらず、僕を映している。
 そして、今度はエリの方から、その言葉と存在を確かめるように強く、僕を抱きしめた。





     ☆☆☆☆



「――メールアドレス」
 サンダルをひっかけた玄関先の帰り際に、ぽつりとエリが言った。え、と僕が聞き返す。
「ずっと変えないでいてくれてありがとう。メールするの、これでもけっこう……、緊張したんだよ」
 涙のあとはもう見えない。にこっとしたエリのその顔に、懐かしくて、でも今までとは違う、新しい笑顔を見た。その愛しさに我慢できなくて、僕はもう一度抱き寄せてぎゅっとした。

 今日、最後に贈る、君への言葉。
「エリ」
 あの時のように、もう、嘘はつかない。

「いっしょにいてほしい」
 そう。 

「これからも、ずっと」


 小さくうなづいた、僕の愛しい人。
 部屋の真ん中にあるテーブルには、空になったおそろいのグラスが二つと、今日彼女に返すはずだった、古いアルバムが一枚、ある。


雨、時々ひとり   (2006/06/14)
朝、七時。 
 早朝から、ぱらぱらと降り続く雨をカサで受けながら、出勤のため、駅へ急ぐ。通りに出ると、同じようなかっこうをして、同じ方向へ歩いている人たちが多くいる。
 雨といっても、そう煩わしく感じるほどではない。激しさはないし、季節は五月。梅雨時のじめじめした雨に比べれば、むしろ気持ちがいいくらいだ。春らしくしとしと降る雨は、少し前に芽生え始めた新芽たちに、新しいエネルギーを与えているようでもある。葉にたまる雨の滴が光に反射して、緑がいっそう濃い。
(こういう雨は、嫌いじゃないな)
駅に行くには、狭い路地を通る。古そうなアパートが立ち並ぶその道は、自動車一台がやっと通れるような細さだ。
 毎日通っている道だが、ふと、僅かな違和感に気付いた。気になるそこへ視線を流したその先に、軒下に揺れる白いかたまりを見た。
『西山荘』
 見るからに古ぼけたアパート。おんぼろな表札に、消えそうな字でそう書かれていた。木材で出来たベランダ(そう呼ぶにはあまりにもちゃちな)の柵も、今にも腐れ落ちそうなほど古く、かなり長い間そこにあるのだろう、変色した白いTシャツがハンガーに頼りなげに干されている。
 都会から切り取られた、色あせた一枚の写真のようなその風景の中で、その真新しい白さは不自然なまでに輝いて見えた。
(てるてる坊主……)
 久々に見た。頼りなげに目や口がマジックで書かれたその独特な形は、紛れもないてるてる坊主だ。少し前かがみになったその姿に、幼い頃に同じように作ったそれの懐かしさを思い出した。
(こう雨が続いちゃ作りたくもなるか)
 久し振りに見かけたその小さなものに、ふわりと心が暖かくなり、覚えず口元に笑みが浮かんだ。
(小学生くらいの女の子、いや、形がいびつだし、なんとなくおおざっぱだから男の子かな)
 男は、そんなことを想像しながら、再び、駅へと歩き始める。
 浅野亮一。三十代前半の、普通のサラリーマンである。


「――ただいま」
 雨は、亮一が帰宅する時も降っていた。と言っても、ずっと降り続いていたわけではない。雨は昼間には止んでいたのだが、どういうわけか、亮一が帰る間際になって再び降り始めたのだ。まったく、タイミングが悪い。
 靴を脱ぎながら、もう一度ただいま、と声をかけたが、返事はない。雑然としているキッチンを抜け、リビングへ行く。部屋の真ん中に置いてある大きなテーブルの前に、妻と子が座っていた。
「あら、帰ってたの」
 キョトン、とした顔で振り向いた美沙子は、悪びれもなく言った。
「まあ、ね」
 半ば諦め気味に言い放ち、亮一はネクタイを緩める。そこへ、えんぴつを持ったままの娘が寄って来た。
「おとうさん、おかえり」
 亮一の娘の里奈は、先月近所の小学校にあがったばかりだ。
「ただいま、里奈」
 ぱあっと明るい笑顔で迎えてくれた娘の、この顔と、「おかえり」があれば、一日仕事を頑張ったかいがあると、亮一は思う。
「里奈、何してたんだ?」
 聞きながら、亮一は雨に濡れた背広を脱ぐ。
「今ねぇ、おかあさんと、さんすうやってたの」
「さっそく明日、計算の小テストがあるらしいの。今必死に教えてたところよ」
 こないだ入学したばっかりなのにねぇ、と呟きながら、美沙子は再びテーブルに向かった。なるほど、テーブルの上には教科書やらノートやら、文房具類が散乱している。いつもは、亮一が帰宅すると真っ先に駆け寄ってくる里奈も、今日は算数に夢中で後回しにされたらしい。
「そうか。いいなぁ、里奈は。お母さんが優しくて。こんなに体が濡れてるのに、お父さんにはタオルも持ってきてくれないんだぞ」
 娘の頭を撫でながら、妻に聞こえるように言った。
「そこにあるわよ」
 美沙子は、部屋の隅に取り付けてあるクローゼットを指差す。直球の皮肉も、美沙子には通じないらしい。
 洗いたてのバスタオルをつかみ、亮一はバスルームへと消えた。

 シャワーを浴びて、リビングへ戻ると、美沙子と里奈はまだ必死に問題を解いていた。時計を見ると、もう9時近い。里奈もそろそろ眠くなる時間だろう。
 濡れた髪を拭きながら。自分で夕飯の準備をする。準備、と言っても味噌汁に火をかけ、おかずをチンするだけなのだが。
「夕飯もだんだん侘しくなっていくなあ」
 亮一が溜息まじりに一人ごちると、ドアを開け広げたままのリビングから、美沙子の声が飛んできた。
「そういうこと言わないでよ。私だって仕事から帰ってきてすぐ夕飯作って、里奈の勉強見てるんだから。今度の休みには、もっとちゃんとしたのを作るわ」
 美沙子は専業主婦ではない。結婚しても仕事は続けたい、という彼女の希望を、亮一は快く承諾した。ただし、主婦業と両立する、という条件付きで、だ。
「ああ、悪かったよ。おいしく頂いている」
 子どもの前でのめんどうごとを避けるべく、亮一はさらりと言い、ごまかすように味噌汁をすすった。
 家庭は、うまくいっていると思う。仕事から帰れば娘が出迎えてくれるし、手抜きがちではあるものの、一応は妻の手料理も待っている。家族団らんで食卓を囲む、なんて夜はめっきり少なくなってしまったものの(もちろんそれは亮一の帰宅時間が遅いせいもあるのだが)、これでも休日には家族そろって出かけたりもしている。
 不満は、ない。
 頭の中で今の生活を反芻しながら、亮一は、黙々と目の前の料理を口に運ぶ。
「里奈、もう眠い? 終わりにして大丈夫?」
 『大丈夫?』とは、『満点取れるの?』の裏返しだ。もちろん、亮一にはすぐ分かったが、当の里奈がそこまで深く考えているはずがない。すでにえんぴつを置き、眠たそうな目をこすっている。
「だいじょうぶ」
「じゃあ終わりにしようか。明日、頑張ってね」
 ほっとしたようにそれを聞いた里奈は、早々に机の上を片付け、のろのろと寝室へと向かった。
「大丈夫かしら」
 心配そうに後ろ姿を目で追いながら、美沙子が呟く。「大丈夫だろ。睡眠不足の方がよほどかわいそうだ」
「そうだけど……」


 食後のお茶を入れ、亮一はさっきまで里奈が難しい顔をして座っていた場所にごろんと横になった。隣で、美沙子が消しゴムのかすを集め、綺麗にしている。
「そういえば」
 思い出したように、亮一が口を開いた。
「今日、てるてる坊主を見たよ」
「へぇ、最近じゃ珍しいわね」
「気付かなかった? 駅の途中の西山荘」
「あの、古めかしいアパート?」
「そう。そこの二階。作ったばっかりみたいな、真っ白なてるてる坊主だったよ」
「ふうん。気付かなかったわ。雨の日って私、下しか見ないで歩いてるから」
 湯のみを片手に、新聞のテレビ欄を眺めている。美沙子はそれほどの興味は抱かなかったようだ。今朝、亮一が感じたわずかばかりの心の温かさを共有するには、相手が悪かったらしい。それ以上の発言は避け、亮一は言われるままにテレビのリモコンを手に取った。

 それから、しばらく雨が降り続いた。
てるてる坊主は、変わらずそこにいた。晴れの日を願っているだろうに、どうやら効果はないらしい。笑っているような雨の音に負けまいと、じっと空を見つめている。
初めて、そこでてるてる坊主を見た日から、三日目。
出勤途中、亮一は、ふと、あることに気付いた。
(昨日と、顔が違う)
それは、わずかな違いだった。マジックの線でできた顔は、昨日とは明らかに表情が違っていた。
(毎日、新しいものに替えられている?)
(そういえば、いつも真っ白だ)
 それは、毎日違うてるてる坊主だった。てっきり最初に雨が降った日から、ずっと同じものが吊るされていると思っていた亮一は、その几帳面さに感心した。
(よほど、晴れてほしいのかな)
 せっせと作り、また取り替えるという作業に、亮一はほほえましさを感じずにはいられなかった。

 それから、亮一は必ずそれを確認するようになった。
 雨が降っている朝には、ゆっくりとその道の前を通る。
(また、新しいやつだ)
(今日のはちょっと不恰好だな)
(お、今日は口が赤い)
 見るたびに新しく、その表情はくるくると変わり、いろんな顔を見せてくれるその真っ白なてるてる坊主に、いつの間にか亮一は楽しみを見出していた。昨日とは違う、新しさ。一日限りの、その表情。
 満足はしているものの、変化のない自分の生活に、真新しいてるてる坊主は、新鮮だった。昨日の雨の音と、匂いを吸い込んだ、昨日までのてるてる坊主。次の日になれば、またまっさらなてるてる坊主。一日一日を素直に生きて、真摯に受け止めている。
 はっきりとした自覚はないが、亮一の心にも、変化が起き始めたようだった。

 その日、亮一は起きた時から、なんだか体がおかしかった。少し熱っぽく、喉が痛い。間違いなく風邪で、寝てれば治るだろうとは思うが、今仕事を休むわけにはいかない。会社に無理を言って、午前中だけ休みをもらい、病院に行くことにした。
いつもよりはるかにゆっくり起きて、病院へ行くため、九時くらいに家を出た。病院は、駅の向こうである。歩く道は、いつもと同じだ。
 雨は、変わらず降っている。
(今日も、あるかな)
 西山荘の前。いつもの確認。
(あれ)
 思わず、亮一は立ち止まった。
 普段より少し赤い顔をした亮一は、そこに、人影を見た。
 高く腕を上げて、必死な様子の、老婆の姿を。
(てるてる坊主を、吊るそうとしている)
 背の低い、老婆の手には、真っ白なてるてる坊主があった。
(あのひと、だったのか)
 子どもの仕業だとばかり思っていた亮一は、意外な事実に仰天した。まさか、あんな高齢の女性が、毎日新しいてるてる坊主を作っては吊るしているなんて、思いもしなかった。その老婆は、決して満足気ではなかった。むしろ、どことなく不安そうな、頼りない表情をしていた。
 多少気にとられながらも、無事にそれが吊るされるのを見届けてから、カサを持ち直した亮一は、再び歩き出した。
 老婆の、寂しそうな顔を、脳裏に浮べながら。

 翌日から、雨は止んだ。と言っても、春らしい気候は戻っては来ず、むしろ梅雨に一歩近づいたような、一日中曇っている、なんとなくすっきりしない天候になった。
 その間、例の西山荘にてるてる坊主は見えなかった。さすがに、雨が降ってなければ、吊るしはしない、ということだろうか。しかし、カラッと晴れてくれないところを見ると、てるてる坊主も効果がないものだ。
 すでに日課となってしまっていた、てるてる坊主確認ができなくなった亮一は、どことなく手持ち無沙汰な毎日に逆戻りとなった。
 しかし、それもたった三日のことだった。
 また、雨の日が続く。


(あれ)
 気付いたのは、再び雨が降って二日後のことだった。
 亮一が知る限り、今まで、一日たりとも続けて同じてるてる坊主は吊るされていなかった。それが今日は。
(確か、昨日と同じだ)
 昨日のは、赤い口で、にっこりとした表情だったから、よく覚えている。今日も朝から雨が降っていると言うのに、てるてる坊主が変わっていない。
(そろそろ、あきらめ始めたのかな)
 なんとなく残念な面持ちで、亮一は肩を落としたが、その時は、そのくらいにしか思っていなかった。
 
 ところが、てるてる坊主が替えられなかったのは、その日だけではなかった。
 翌日も、その翌日も。吊るされたてるてる坊主は、赤い口の、にっこりとした表情そのままだった。
 日が経つにつれ、そのてるてる坊主は、雨水を吸い、冷たい風にあたり、徐々に薄汚れていく。
(おかしいな)
 亮一はさすがに訝った。あれほど、連日続けて新しいものに替えられていたてるてる坊主が、急にそのままになったなんて。薄汚れていくそれを、何もしないで放置しているなんて。
(まさか)
 

 亮一の危惧は的中した。
 てるてる坊主が替えられなくなって一週間後、西山荘でひっそりとした通夜が行われた。
 誰の通夜か、なんて、言わずとも知れたことだった。
 一方的な関心だけで、特につながりのない亮一が出席することはもちろんなかったが、西山荘の前でたむろする黒い礼服を着た人たちを見ただけで、彼は全てを悟った。
 決して大規模ではない、むしろ身内だけで行われているような、閑散とした通夜だったが、それでも例のてるてる坊主はそこにあった。作りたてではなく、日が経ってすっかりボロボロになってしまってはいたが、紛れもない、てるてる坊主。
 通夜の日は、ここ最近で一番の快晴だった。


「前に、あなたが言っていた西山荘のてるてる坊主って、あのおばあさんが作ってたのね」
 その日の夜、洗い物をし終えた美沙子が、低めの声で亮一に話し掛けてきた。娘の里奈は、一人離れてテレビに夢中だ。実は亮一も、そのことを話そうと思っていただけに、美沙子の方からその話題が振られるとは、少し驚いた。
「私、今日お通夜に行った金木さんから聞いたんだけど、あのおばあさん、もう何十年も前に、旦那さんに先立たれて、数年前にも、お孫さんを亡くしてるらしいの」
「え」
美沙子の意外な言葉に、亮一は読んでいた雑誌を閉じ、身を乗り出した。
「孫までか? なんで」
「金木さんは事故だろうって言ってたけれど……、それがね」
 そこでいったん言葉を切った美沙子を急かすように、亮一は先を促す。
「それが、なに」
「二人とも、亡くなった日に、雨が降っていたらしいのよ」
――つながった。
 そうか、それでか。
 てるてる坊主を作り続けていた理由。
 雨の日が嫌いな理由。
 早く晴れて欲しいという切実な願い。
「そう、だったんだ」
 思い出す。日々新しくなる真っ白なてるてる坊主のことを。今日も替えられてるかな、今日はどんな表情。
 雨の日の、少しの楽しみ。
 毎日の、少しの変化。
 あの真っさらなてるてる坊主に託された、一つの願い。
 その願いは、決して叶ったとは言えないけれど。
 それでも。
「今日の通夜だけは、すっきり快晴、だったわけか」
「皮肉なものね。亡くなってから晴れるなんて」
 そんなものだろう、と亮一は思った。
 人の願いなんて、願っているだけで叶うものか。
 まして、てるてる坊主なんて、子どもだまし。
「里奈」
 そう思いながら、亮一は里奈を呼んだ。そろそろテレビに飽き始めていた娘は、笑顔で走り寄ってくる。
「なぁに? おとうさん」
「里奈、てるてる坊主って作ったことあるか? お父さんと一緒に作ろうか」
「てるてるぼうず? でも今日はすっごいいいお天気だったよ」
 小首をかしげながら、里奈は聞く。
「いいんだ。作ろう。美沙子、白い布とかあるかな?」
「はいはい、今持ってくるわね」
 

 翌日、浅野家のベランダに、初めててるてる坊主が吊るされた。
 その日は、初夏を思わせる、眩しいほどの快晴だった。



リスキー・リング   (2006/04/15)
俺は扉を開けた。
 ギィという音が店内に響く。黒と白に身を包んだメガネの男が、少しだけ頭を下げる。口元がいらっしゃいませ、と動いていたが、声は聞こえない。適当に席を探す。カウンターの一番端に座る。店内は思いのほか暑く、背広を脱ぎたかったがネクタイを緩めるだけで我慢した。
 ブラックルシアンを。
 さっきのメガネの男に声をかける。メガネは事務的な声でかしこまりましたと言い、機械的な動きでグラスを扱う。よく見たらメガネは伊達だ。しかもその面は不細工ときている。このバーテンのルックスだけで女性客の足が遠のくなと思う。この男は好きになれそうにない。
 音楽のことなど分からないが、流れているのはジャズだろう。でかいピアノが置いてあるところを見ると、週末には生演奏でもしているのか。店内を見定めるようにぐるりと一周眺めた所で、店の扉が開く気配がした。おもむろに視線を動かす。
 女が一人入ってくる。知らない女だ。年齢は……二十後半。長い髪。赤いロングドレス。同じ色のルージュ。店内の視線を一瞬奪う。女と目が合う。慌てて視線を逸らす。ピンヒールの固い音が近づいてくる。
「お隣、よろしい?」
 驚いたことに、声をかけて来た。俺は動揺を必死に隠しながら、どうぞ、と応える。回転式の丸い椅子に座る。長いスカートのスリットから見えた肌の白さに驚く。見ると、顔も異常に白く、唇は異常に赤い。あまりに明白な赤と白。歴然とした差が、いらぬ妖艶さを掻き立てる。女はブラッディマリーを頼んだ。不細工の伊達メガネは先ほどよりも遥かに愛想のいい声で返事をする。分かりやすい男だ。
「どうして隣に座るのかって顔しているわね」
 その通りだ。俺は特に容姿に自信があるわけでもない(むしろ、ない)。なぜこの女はこんな男に声をかけたのだろう。
「お邪魔だったかしら? どなたかいらっしゃるの?」
 いや、誰も来ないよ、僕一人だ。
 やっぱりという顔で女は微笑む。伊達メガネが、お待たせいたしましたと女の前に丁寧にグラスを置く。俺の時は確か無言だった。女はありがとう、と言い、グラスを手に取る。
 グラスを傾けたその綺麗な指の先も、真っ赤に色がついている。その指は細く、白く。女性の指をこんな間近で見るのは初めてで、指に官能を感じたのも初めてだ。 
 ああ、聞いてもいいだろう? なぜ僕なんかに声をかけたんだ?
「あなた、誰かと話をしたそうな雰囲気だったもの。一人で静かに飲みに来た男性とは違うって思ったから。ハズレかしら?」
 誰かと話をしたければ一人でこんな所に来るものか。だが、それは彼女が現れる前の話。
 アタリだよ。最近、誰とも話らしい話をしていないからね。
「ふふ、でしょう? それに、私に興味あるんじゃないかな、って思ったのよ、なんて」
 まさにそっちがアタリだ。もし話しかけてきたのが伊達メガネの双子の妹だったりしたら、俺は間違いなく席を立っている。
 アタリ。男はいつだっていい女に惹かれるんだ。
「それ、最高の褒め言葉ね」
 褒めたつもりはないが、彼女にはそう聞こえたらしい。普段女性と話す機会がほとんどない俺は、話し方がわからない。もともと、人と話すことは得意じゃない。しかも、たった十分前に会った美女を目の前にして、何を話せばいいのか、さっぱり分からない。
 申し訳ないけど、僕は話すのが苦手なんだ。
「いいわ。じゃあ、私が聞くからそれに答えて。ここにはよく来るの?」
 そうは見えないだろう。今日が初めてだよ。
「どうしてここに来ようと?」
 たまたま、気まぐれ。
「御自宅は近いの?」
 ここから歩いて十五分ほど。会社の方が遥かに遠い。
「お仕事は何を?」
 別に、普通のサラリーマン。
「恋人は?」
 いたら一人でなんか飲んでないよ。
「一人暮らしなの?」
 安いアパートに独り住まい。
「この指輪の話、聞きたい?」
 はた、と俺の動きが止まる。ずっと、彼女とは目を合わせないで飲んでいる。ただ、グラスの中で揺れるアルコールを見つめてしゃべっていた。しかし、その一言で思わず彼女に向き合う。目が合うよりも先に、彼女の細い指にある指輪に視線がぶつかる。左手の人差し指。美しい指輪だった。ただ、柄も飾りもない、シンプルな指輪だ。女性にはシンプルすぎてつまらないのではないか、と思うくらい飾り気がない。まさに輪っかだ。しかし、そのシルバーの目映いほどの輝きは、目を見張るものがある。もとから、かなり良い素材のものなのか、それとも余程手入れがいいのか。とにかく、その指輪の美しさに驚いた。
 その指輪は?
「聞きたい?」
 意味ありげにもったいぶり、目の前でその人差し指をちらつかせる彼女に少しいらつきながら、俺は応える。
 話してくれるのなら、ぜひ。
「いいわ。あなたが後悔しないならね」
 ……後悔だって?
 俺が聞き返すのも当然だろう。指輪の話を聞くのに、後悔するか否かが関わってくるなんてどういう話だ。
「後悔するのが怖いなら、やめておいたほうがいいわ。そんなおもしろい話でもないと思うし」
 ここまで言われて引き下がる人間は、よほど好奇心が貧困なのだろう。そう言われて、じゃあ聞かないよ、とは俺には言えない。
 いや、聞かせてくれよ。後悔はしない。
「そお?じゃあ話すわ」
 瞬間、さっきより少しだけ幼くなった表情にどきりとし、俺はグラスをあおった。
「この指輪はね」
 一呼吸、置く。
「血を吸っているの」
 え? と目で聞くと、微笑で答えた。左の人差し指にはまった、その細い輪っかを目の前でちらつかせながら、唇だけで彼女が笑う。きっと予想通りなんだろう、俺の反応を楽しそうに見つめ、話を続ける。
「この指輪ね。一度はめたら外すまで、血を吸い続けるのよ。ほら、今こうしてしゃべっている間にも吸っているわ。私の血をね。信じる、信じないはあなたの勝手だけど。でも、思わなかった? この女異常に肌が白いなって。思ったでしょう? それも健康的な白さじゃないのよね。なんていうか……不自然な青白さっていうか。もともと肌が白すぎる人ってあまり健康的とは思えないけれど。私のこの色はね、まさに不健康。当たり前よね、血を吸われているんだもの。あ、もちろんこの指輪によ。つまり、私の体は血が全然足りないの。そうね、もう、ひと月になるわ。最初はね、分からなかった、血を吸われているなんて。聞いてはいたけど、そんなの信じられるわけないじゃない? ああ、最初は今みたいにこんなピカピカじゃなかったのよ。むしろかなり曇っていて、全く見栄えがしなかった。それが私の血を吸収し始めて、だんだんと輝きを増すようになったの。ほら、綺麗でしょう? これ、私の血のおかげよ。指輪が生きているの。呼吸しているのよ。指に指輪の鼓動を感じる。熱いわ。でもね、もうそろそろ限界が近づいているような気がするの。ずっと私の血を吸い続けているけど、私の血液もさすがに限りがあるものね。まったく貧血もいいところよ……」
 ま、待ってくれ。
 このまま話を聞いていると、こっちがおかしくなってしまいそうだ。当然ながら、完全には信じられない。しかし、彼女がこれほど凝った作り話を、今日会ったばかりの俺にする理由もわからない。何より、信じられないほどの指輪の輝きと、彼女の青白さが真実を物語っている気がしてならない。
 ちょっと待ってくれ。僕からも質問させてもらってもいいかい?
「いいわよ。なに?」
 君は自殺志願者なのか?
「違うわよ。長生きしたいもの」
 だったら、もしその話が本当だとして、どうして指輪を外さないんだ? このままだと全ての血液を吸われてしまうんじゃないのか?
「外れないのよ。この指輪はね、一度はめたら決して自分の力では外せない。力づくでも絶対に無理」
 でも……まさか産まれた時からつけているわけではないだろう? どうやってそれを手に入れたんだ?
「もちろん、好きでつけているわけじゃないわ。これは、ひと月前に恋人からもらったの。もう別れたけれど」
 その男は指輪のことを知っていたのか?
「知っていたから、私にくれたのよ。思えば、あの男の肌の白さも異常だった。彼も、ギリギリだったのかもしれない」
 じゃあ、その男は外れたんじゃないか。どうやって外したんだ?
「知らないわ。もらった時は血を吸う指輪とは聞かされていないもの」
 と、いうことはその男は自分の血が全て吸い取られるのを恐れて、代わりに君を犠牲にしたということ?
「そうなるわね。私が指輪をつけた瞬間に、『別れて欲しいんだ』、ですもの」
 ひどいな。
「そうね、最低よ。私、本気で彼のこと愛していたのに」
 なぜだか、心臓がきゅっとなる。こんな美人の口から「愛している」などという言葉を聞いたのは初めてで、それがすごく艶かしく感じた。なんだか情けないが、下手に動揺してしまう。
 ふと、思う。(聞いた指輪の話がすべて本当ならば)今、彼女は生死のギリギリの位置に立っているわけで、本来ならばこんなところでアルコールなんか飲んでいる場合じゃないだろう。すぐさま警察なり病院なりに行って事情を話すべきだ。しかし、特に慌てている様な素振りも見せず、彼女は釈然と酒を飲みながら僕とこんな話をしている。
「あれから他にいい男もできないし。散々よ」 
 言葉を含ませてため息をつき、カラン、とグラスの氷を滑らせる。目が合い、笑う。映える唇の赤さ。
「あなた、名前も歳も聞いていないけど、三十前後ってところよね? 思ったより落ち着いていて素敵じゃない」
 もの好きだね。
「なぜ? 私これでも男の趣味は良い方よ」
 もしかしたら、そんな馬鹿げた指輪の話なんかすべてでっちあげで、こうして僕と話すための口実なのか? 一瞬、脳裏をよぎったそんな仮説を、自嘲するように打ち消す。
 もう一杯、いくかい?
「そうね、お願いしようかしら」
 さっきと同じ、ブラッディマリー。関心のないふりをしてちらちらと彼女をうかがっていた伊達メガネが、待ってましたとばかりに近寄ってくる。俺の方は完全に視界に入ってないらしい。つくづく嫌な奴だ。
「あなたは?」
 僕はいいよ。もともと強くないし。
 しばらくして、グラスが置かれた。赤と、少しの黒。そんな色をしている。
「血の色よね。少しは補充できるかしら」
 トマトの栄養分と、色だけはね。
 俺の言葉に、彼女がくすくすと楽しそうに笑う。とても、美しく魅力的な笑顔。命をも奪われるかもしれない今の状況で、強く、一生懸命生きているという気がする。彼女の、連絡先が知りたい。──そう思った瞬間。
 するり、と。
 彼女がおもむろに指輪を外す。
 ぎょっ、と。
 俺は驚いて目を見開く。
 二本の白い指と、赤い爪に挟まれた一つの指輪。
 なんだ。外れるじゃないか、やっぱり作り話だったんだろう? すごいな、良く考えたものだ。
 彼女は答えず。
「あなたの手に、触れてもいい?」
 安心していた。彼女の指からなんのためらいもなく指輪が外れるのを見て、すっかり作り話だと信じきった俺は、彼女の手が指に触れ、指輪を俺の薬指にはめるのを、黙ってみていた。洗練された、だが機械みたいな動き。白く細い彼女の指の感覚が、俺の肌に伝わる。手や指の間は敏感、というけど本当だと思う。誰かにこうして手に触れられるのは初めてだ。彼女の肌の温かさが直に分かる。もっと、いつまでもその温度に触れていたかった。
 ──しかし。
「……これで、やっと助かったわ」
 え?
「ごめんなさい、悪く思わないでね。お話できて楽しかった」
 何を言っているんだ?
「心配はいらないわ。最低でもひと月以内に、あなたに本気で、心から興味を持ってくれる女性を捜せばいいの。そうね、愛してるって言わせられたら完璧ね」
 待ってくれ。
「ふふ、まさかあなたがここまで私に惹かれるとは思わなかったわ。隠していたつもりみたいだったけど、君のことがもっと知りたいって、顔にはっきり書いてあったわよ?それほど邪(よこしま)な気持ちからじゃなかったみたいだけど。割と純粋なのね。でもそのおかげで指輪が外れたんだもの、感謝するわ」
 ……君が話したことは全て本当だって言うのか?
「それはこれからあなたが自分で確認することよ。もしかしたら嘘かもしれない。私も最初は、絶対に嘘だと思ったもの」
 まさか。
 まさか。
 まさか。
 ──外れない。指輪は外れなかった。きついわけでもない。それは、俺の指のサイズぴったりに仕立てたように、見事なまでにフィットしている。たった今、彼女がすんなりと俺の指にはめてくれたのを、俺はこの目で見ている。あれほどゆるやかにはまったのに、今は少し動かそうとしても揺らぎもしない。びくともしない。自分の顔がだんだん青ざめていくのが分かる。血の気が引いていくとはこういうことを言うのだろう。彼女がほんの数分前までつけていた指輪が、今は俺の薬指に在る(・・)。
 僕は……これから血を吸われていくのか?
「それもあと一、二週間もしたら嫌でも分かるわよ。よほどの鈍感じゃなければね」
 どうしたらいいんだ。
「言ったでしょう。女をおとせたら外れる。でも、遊びじゃなくて本気であなたに惹かれなきゃダメ」
 僕は、君に本気で……?
「あら、分かっているんじゃなくて? 指輪が外れたのが何よりの証拠」
 女は、グラスの残りを一気に飲み干すと、ゆっくりと席を立った。ふわりと空気が動き、強めなフレグランスが鼻につく。
「ごちそうさま。本当に感謝するわ」
 俺の頬に唇を寄せ、わざとらしいキスの音をたてる。
「とりあえず、口説き文句の一つでもマスターすることね」
 そう言い残し、女は歩き出す。俺は右手でグラスを握り締め、左手の指輪を痛いほど見つめながら、女の背中に呼びかける。
 一つ、教えてくれ。
 なぜ、次のターゲットを僕に?
「さあ? たまたま、気まぐれよ」

 
 ゆっくりと扉が閉まる。
 暑かった店内が、今は真冬のように寒い。
 



恋じゃなくなる日   (2006/02/14)
 慣れた手付きでギアを3速に落とし、ハンドルを右に切る。
 遅々として進まない国道から逃げるように、狭い路地に出た。30キロ速度制限の標識を一瞥し、再び4速へとギアをチェンジする。
 エンジンが激しく音をたてる。
「まったく、本当にお前とでかけるとろくなことにはならないな。2時間もあれば着く、と言ったのはお前だぞ」
 溜め息まじりに運転席の男が口を開く。銀縁のメガネの奥から覗く瞳が、やれやれと言っているようだ。朝9時に出発して、かれこれ4時間は経っている。スムーズに流れていれば2時間程度で到着する予定だったが、国道の渋滞が思わぬタイムロスだ。 
 それに応えた男は、助手席のリクライニングシートを限りなく水平にして、頭の後ろで腕を交差させている。色褪せたジーンズを履き、その長い足を邪魔だと言うようにどっかりと組んでいる。
「ちょっと違うな。オレは『渋滞しなければ』と言ったんだ。嘘はついてない。それに、運転するのはお前だしなァ」
 ふいに、タイヤの擦れる派手な音がして、車が急停止した。
「うわッ」
 短く叫んだ助手席の男は、あやうく体のバランスを崩し、フロントガラスに激突するところだった。
「なんだ? 猫か? ついに人でも轢いたか!?」
「赤だ」
 あわてて体を起こして前を見ると、赤く点灯した信号機の下、停止線ギリギリの所に車は止まっていた。
「……相ッ変わらず、イイ性格だな」
 眉をひそめて再びシートに横になる。
「褒めてもらって嬉しいよ」
 クラッチを切りながら男は薄く笑い、今度はゆっくりとアクセルを踏んだ。
 窓を開けると、ほのかに潮の香りがした。
 目的地まで、あと少し。


昼間の雲は太陽の味方のようだ。太陽から照らし出される陽の光の邪魔をしないように、あちこち隙間を作っている。言わば、光の通り道だ。
海岸沿いの小さな駐車場に車を停め、二人の男は外に出た。
「これのどこが、春が近づいて来ているって? この寒さは真冬並だぞ」
 運転席から降りた男は、そう呟きながら青いマフラーを首にかけ直す。ダークグレーの厚手のジャケットに、黒の綿パン。真新しい革靴は、砂浜を嫌う。
「まあ、あったかい方じゃないの」
 いくら太陽が出ているからと言って、すべてが味方してくれるわけでもないらしい。人気のない海辺に向かって歩き出す男の肌を切りつけるように、 最後の冬の風は容赦なく襲う。
風さえなければ良い天気、まさしくそんな気候だ。
 先を歩くメガネの男に少し遅れて、ジーンズの男が助手席から降りた。脱ぎかけだったスニーカーを履き直し、白いパーカーのフードを頭にすっぽりとかぶりながら、──おい、アキ待てよ。と、声をかけた。
 男は聞こえているのかいないのか、そんな声も気にかけず、より近い浜辺を目指し、石の階段を下りていく。
 アキ、本名は『アキマサ』という。短めの黒髪に、銀のメガネというスタイルは、昔から変わっていない。昔、と言っても二人が出会ったのは高校の時だから、せいぜい6、7年前というところだが。
 冷静で、マイペースな所も全く変化なしだ。
「しかし。お前も相変わらずの変人ぶりだな、マサト。この季節にこんな場所をご希望とは。よほど俺と二人きりになりたかったと思われる」
 風に運ばれた砂が覆い尽くす階段を降りきり、アキが足を止めた。 その視線は遠く地平線に注がれており、振り向くことはないが、どうやらマサトを待っているようだ。遅れて階段を降りるマサトが、潮風に飛ばされそうなフードを両手で抑えながら応えた。
「ははっ。まあいいじゃないの。海なんてお前めったに来ないだろ?」
 アキとは対称的に、少し肩にかかる長めの茶髪。少し日に焼けたその顔は、髪形と、ぱっちりとした丸い瞳のせいか、人なつこい大型犬を彷彿とさせる。背丈は、アキよりも少し高い。
 階段を降り、二人は肩を並べて歩き出す。
 マサトがパーカーのポケットから煙草を取り出した。一本抜き出し、口に咥えて火をつけようとするが、風が邪魔をしてなかなかつかない。手で壁を作り、向かい風に背を向けると、ようやく煙が立ち始めた。
 そんなマサトの様子を横目で見ながら、アキが呟く。その両手はジャケットのポケットにすっぽり収まっている。
「……寒いな」
「そんな寒くねーって。お前そんな厚着してるべや」
 ぷかぁと煙を吐き出し、アキのしかめ面を笑い飛ばす。車内禁煙だったため、煙草も実に4時間ぶりだ。見るからに満足そうな表情をしている。
「お前が羨ましいよ。こういう時、子供体温というのは便利だな」
「は。お前こそ、相変わらずの皮肉屋毒舌ぶりでオレは嬉しいよ」
「それは良かった。お前もヘビースモーカーは続行中だな。体に悪いと何度言えば分かるんだ。吸うならちゃんと灰皿のあるところで吸え」
「まぁったく、うるさいな。分かってるさ」
 うっとおしそうにアキの言葉を振り払い、ジーパンのポケットから携帯灰皿を取り出した。白いソフトケース型の物で、その汚れ方を見ると、随分使い込んでありそうだ。
「──まだ、持ってたのか」
 アキが、少し驚いたように言った。
「こんなの新しく自分で買うか」
 それは、何度言っても煙草を手放さず、その上投げ捨ての癖が抜けないマサトのために、アキがくれたものだった。高校生活、最後の冬のことだ。
「感心だな。喫煙家として当然のマナーだ」
 今までマサトの前で何度も繰り返してきた言葉を、また口にする。返事の代わりに、彼は再び煙を吐き出した。
「それと」
 ひと際強い潮風が、また、二人を襲う。顔にかかるマフラーを払いのけながら、アキがもう一言付け加えた。
「風が強い日はターボライターの方がいい」   



 お世辞にも綺麗とは言えない浜辺で、二人は立ち止まった。会うのは実に、高校の卒業式以来で、4年ぶりにもなる。それでもお互い「久し振り」の言葉は出てこない。
 言葉、なんて面倒くさい以外に言いようがないものだ。頭の中で選んだ単語を繋げ合わせて文章にし、感情を加えて唇にのせる。そんなことをしなくても、気持ちが伝わればいいのに、と思う人間は大勢いるだろう。だが、実際それが現実になったら人間は果たして誰を信じることができるだろう。
 マサトが砂浜にあぐらをかく。靴やジーンズの隙間に入り込む砂のことなど、考えてもいないようだ。
「しっかし、人がいないなあ。……オレも海なんてそんなに来ないけど、猫一匹くらいいてもいんじゃねぇ?」
「それで?」
「え?」
 上から降ってきた声に思わず反応し、アキを窺う。
「真顔で聞き返すな。こうしてお前から誘うなんて、何か話があるんだろう?」
 話の切り出し方も全く変わっていない。マサトが情景描写を始めたら、本題が別にあると思っていい。言わずともいい話に最後まで付きやってやるほど、親切とは言えないアキであった。
「……ああ、そうだな」
 お前が相手だもんな、……そんな、苦笑い。
 二人の視線は互いの瞳ではなく、飽くことなく繰り返している、行ったり来たりの白波。広い海には赤いブイが所々に浮かんでいる。思い出したように、ごく稀に白い鳥たちが止まっては、羽を休めていた。
「オレ、さ」
 一呼吸。
 決して話を急かしはしない。
「──結婚するんだ」
 アキは動じない。視線は沖、両手は変わらずジャケットのポケットだ。ゆうに1分は間を開け、やがて重そうに口を開いた。
「……相手は?」 
 そんな当たり前と言えば当たり前の質問に、マサトは痛そうに顔をしかめる。別に、名前を言うだけだ。やましいことなど、ためらうことなど何もない。
 マサトは口を開こうとした、しかし。
「はは。ちょっと、意地が悪かったかな」
 自嘲を含んだアキの笑い声に、開いた唇は言葉を失う。代わりに、微かな吐息を一つ。
「だいぶ、な」
 おそらく、思うことは互いに同じ。それをどう言葉にしたものか。していいものか。想いだけが頭を駆け巡り、文章にまとめることができない。
 遠くで子供の叫ぶ声がした。いつの間に来ていたのか、小さな女の子がひとり、父親らしき男の側で、はしゃぐように浜辺を駆けている。だいぶここからは距離があり、会話までは聞こえない。防寒のため、だいぶ着込んでいる女の子が、なんだかもこもこしていて、可愛かった。
 風は、弱まる気配を見せない。依然として、彼らの体を打ち付けている。耳にも、赤みが増してきた。
 長い沈黙のあとで、突然、マサトが吐き出すように叫んだ。
「……結婚してくれって言った時に、アイツから聞いた。オレは知らなかったんだよ」
 覚悟は、していた。
「アヤがお前に抱かれてたなんてな!」
 今日、マサトから電話があった時から、気付いていたのだ。話を切り出しやすいようにしてやったのも、わざとだった。驚きはしない。当然の、呵責の言葉。黙っていた負い目よりも、マサトに知られたことへの安心感の方が、なぜか勝っている気がする。
「……悪かった」
 全く、意味のない謝罪の言葉。そう分かっていても、言わずにはいられない。意を決し、アキは言葉を続ける。
「二年前に、一度、会いに行ったんだ。たいした用じゃなかった。サッチっていただろう、高校から仲良かった。……住所聞いて、待ち伏せた」
 マサトは口を挟もうとはせず、ただ黙って聞いている。その目には力が入り、顔が紅潮していくのが分かる。
「そんなつもりはなかった。ただ、成り行きで彼女とはそうなってしまったんだ。それでも、俺は後悔していない」
「『後悔していない』……?」
「その時、彼女は何も言わなかった。お前と付き合っているなんて、一言も言わなかったんだ」
 マサトの表情が少し変わった。アキの言うことを頭で反芻しながら、ゆっくりと言葉を吐き出す。
「……でも、お前は知ってただろう? アヤとオレのことは、サッチから聞いてたはずだ」
「そうだな。俺はお前の女だと知っていて、彼女とした(・・)んだ」
「なんで……っ」
「どうしてだろうな。もちろん、衝動的に行動したわけじゃない。俺は冷静だった」
「お前がいつも冷静なんてことは、良く知ってるさ……」
 言葉が続かなかった。マサトは今、言うべき言葉が分からない。何を言えば、いいのだろう。まったく、言葉なんて面倒だ。アキが行為を肯定したのは確かで、自分とアヤが結婚することもまた、変わることのない事実なのだ。
「俺は、お前たちが別れることを期待していたのかもしれないな」
「なんだと?」
 思いがけないアキの言葉に、マサトは目を剥いた。淡々と語るアキとは反対に、高揚した気持ちがまた、湧いてくる。
「別に、アヤが好きだから別れさせたかった、とかそういうんじゃない。俺が原因でお前たちが別れて、そのあとのお前の反応を見たかったのかもしれない」
「お前、訳(わっけ)わかんねぇよ。なんのためにそんなことすんだよっ……」
「さぁな。俺にも良くわからない。だけど、あんなことがあっても、お前たちは別れることはなかった。なんだか、思惑通りに行かない反面、やはり安心したよ」
「わかんねぇよ……。オレはアヤからそのことを聞いた時、めっちゃくちゃに腹が立った。アヤにも、お前にもな。会ったら絶対に一発殴ろうと思ってた」
「……殴っても、構わない」
「アヤは、高校の時、お前が好きだったんだよ」
 その時初めて、アキのポーカーフェイスが崩れた。視線を落とし、マサトを上から見つめる。
「オレは知っていた。だから、アヤがオレを受け入れてくれたときは正直驚いた。やったとは思ったけど、ずっと気になってたんだ。オレと一緒にいるときでも、アヤはお前のこと考えているんじゃないかって、な」
 マサトの声は、意外にも落ち着いていた。自分でも驚くほど、すんなりと言葉が出てきた。まるで、今までずっと推敲していた書き込みだらけの草稿を、今この場で清書しているような。
「アヤは、抵抗しなかっただろう? ずっとお前を想っていたんだもんな、念願叶ったり、ってとこだろ」
 マサトは笑った。ほんの少し自虐的に、皮肉めいた言葉で。頭にかぶったフードのせいで、アキからはマサトの表情が見えない。今、彼はどんな顔をしているのか。
「プロポーズした時に、オレは玉砕覚悟で聞いた。アキのことはいいのか、ってな。アヤはオレが気付いていることは知らなくて、驚いてたよ。……でも、はっきり言ってくれた。結婚相手、オレで絶対に後悔はしないって」
 それは、アキに言っているというより、マサトの独白のようだった。語りかけている感じはしない。アヤのことを、アキのことを、一つ一つ思い出しながら台詞にする。
 彼(マサト)は、穏やかだった。
「あー。もう、いい。もう、いいや。お前の性格なんて、オレが一番良く知ってる。これから先、お前との関係が壊れることなんて想像もつかねぇ。もう、いいんだよ」
 急に、マサトの声色が変わった。考えるのが面倒だ、とでも言うように、何かを吹っ切ったのだ。でもそれは決して、投げ遣りではない。
 フード越しに彼を見つめ、アキが名を呼ぶ。
「マサト」
「オレは過去を踏み台にして未来を生きる。誰が何しようが関係ない。アヤは、オレが必ず幸せにするさ」
 建て前ではなく、心からそう思った。過去に何があろうと、これからの未来は変わらない。
「マサト、……悪かった」
「ああ、もう謝るんじゃねーよ」
 お前が本気で俺たちを別れさせようなんて、思うわけないんだからよ。
 最後の言葉は口には出さなかった。
 マサトが立ち上がる。ジーンズを軽くはらって、かぶっていたフードを取った。
「しっかし、あーどうするよ。結婚初夜に『やっぱりアタシ、アキが好きなの!』とか言われたら」
 大きく伸びをしながら、ひとり言のように叫んだ。フードを取ったせいか、幾分風が気持ち良い。
「ふん……、その時こそ、一発殴りに来い」
 唇の端を持ち上げて、アキが微笑む。冗談めかして口にした、かなり本気の言葉。ギリギリの境界線。
「は……ははっ、そうだな、そうするか」
 本気の冗談に、本気で応えた。マサトも、腹から笑った。 
 二人は、再び歩き出す。
 午後の日差しは、冷たい頬に心地良い。昼時を過ぎて、街も少しは動きやすくなっているだろう。この浜辺にも、人が来るに違いない。
 元来た階段を上がったところで、マサトが口を開く。
「最後に聞かせろ」
 アキが振り返り、彼の目を見据える。眼鏡の奥の瞳は、曇っていない。
「お前は、アヤをどう思っていたんだ?」
 僅かに瞳を震わせたアキだったが、それを隠すように、車にキーを差し込んだ。回しながら、呟く。
「……靴の砂をはたいてから乗れよ。車を砂まみれにするな」
 マサトは笑って、ああ、と一言うなずいた。 

 冬の終わり、春の訪れ。
 そんな乾いた風が、二人の体に吹き付ける。
 春に程近い日差しのおかげで、車内は暖かかった。
 海岸を後にし、エンジン音をたてて車は走り出す。
 
 春はもう、すぐそこに。


回れ回れ回れ!【年末連日掲載祭作品!】   (2005/12/31)
 屈辱だ。
 全くもって屈辱だ。
 いつもであれば、俺は既にこの世にいないはずだ。いつもであれば、俺の背中の光り輝く赤を目ざとく見付けた奴が俺を捕らえ、あの黒い液体をかけ、無遠慮なまでに咀嚼されているはずだ。いつもであれば、俺は既に噛み砕かれ、木っ端微塵となり、奴らの胃液に溶かされているはずだ。それで俺の任務は終了。短い生涯に幕を下ろす。
 ところが。
 今日はどうだ。 俺が生まれ、動く歩道の上に乗せられ、毅然とかまえていても誰一人俺に目を向けない。このまま閑古鳥が鳴き続ければ、この動く歩道をぐるっと一周してしまうのは時間の問題だ。
(俺を見ろ! この俺を!)
(俺は王だ、最高のまぐろだぞ!)
 必死のアピールも虚しく、俺はとうとう屈辱的な〝動く歩道一周完走〟という愚行に至ってしまった。客がいるテーブル席から隔たれた厨房に待っていたのは、数分前に俺を生んだ、まだ若い男。互いに望んでいなかった、最悪の〝再会〟。
「あっ! てめぇこの野郎! 何でしっかり食われて来ねぇんだ!」
 奴は、まだ「生きている」俺を見るなり、想像通りの罵声を浴びせた。
「それはこっちが聞きたい。今日の客は見る目がないな」
 極めて俺は冷静だ。腐っても鯛ならぬ、腐ってもまぐろ、だ。寿司ネタの頂点に君臨する王たる者が、こんな奴ごときに感情的になってたまるものか。
「客が悪いっていうのか!? 飲食店にとって客は神と同じだ! てめぇみてえな役立たずにとやかく言う資格はねえっ!」
 またか。「客は神」。こいつの口ぐせだ。まあ分からんでもないが、俺にとって客とは、俺が生まれ、食われ、生を放棄するまでという、任務を全うするための道具でしかない。奴らは、俺の命を奪った、とでも思っているのだろうが、俺は自分のために奴らを利用しているだけに過ぎない。まあ、今はそんなことどうでもいい。
「さっさともう一周行って食われて来やがれっ!」
「相変わらずお前は頭に血が上っているな。そんな沸騰した頭で上手い寿司なぞ握れるのか?」
 俺はしゃべりながらも流れていく。この大地は止まることを知らない。
「……んだと、このやろッ! 客だけじゃなくてこのオレ様までも愚弄する気か!?」
「ふん。あまり熱くなると握った寿司まで温くなるぞ」
「……てめぇ」
 奴は今までよりさらに顔を赤くし、俺を睨みつけた。あと数センチで第二周目に突入、という所を、俺はさっと皿ごと持ち上げられた。同時に俺の身もキュッと引き締まった。まずい。
「このオレ様にそんな口利いていいと思ってんのか? てめえをこのまま生ゴミ行きにしてもいいんだぜ?」
 奴は、俺を(正確には皿を)自分の目線と同じ高さまで持ち上げ、舐め回すような視線をぶつけてきた。
「オレ様には逆らわない方がいいんじゃないのか?」
 こうなってしまうと、こっちは不利だ。 不本意ながら、おとなしくなる。
「分かった。もう何も言わん。だからおろせ」
 ここは従順になるのが賢明だ。どっちにしろ、鮮度が命の俺の寿命は長くない。だったら、ゴミ箱なんかではなく、いつもの戦場で死を遂げたい。
「気合い入れてけよ! 三周目なんざないと思え!」
 無事に、元の動く歩道の上に降ろされた俺は、二周目というプレッシャーと戦う覚悟をし、奴に別れを告げた。
行くしかない。
 客の入りは上々。普段と変わらぬなかなかの盛況ぶりだ。だから余計に俺が捕らわれない理由がない。道は進む。数秒に一人、目の前を通過していく。視線は向けられるものの、手を伸ばしてくる奴は、未だいない。
 ふと目を向けると、俺の隣に乗っていた皿がいつの間にか消えている。客に取られ、その任務を全うしたのだ。……なぜ、俺はまだここにいる。
 その時。
「ああ、今日は我々は不況だねえ。特に君なんかはいい迷惑だろう」
 前を走っていた皿に、俺は声をかけられた。最近仲良くなったエビの奴である。
「なぜだ? 特に俺が、とはどういう意味だ?」
 奴の発した言葉の意味が理解できず、聞き返す。
「あれ? まさか君知らなかったのかい? あれだよ、あれ」
 そう言って、奴が指さしたそこには。
〝本日大特価! 中トロ一皿一〇〇円!〟
(なんだとッ!?)
 衝撃を受けたものの、頭のいい俺はすぐに理解した。 
(……なるほどな、そういうことか)
 どうりで俺はダメ日なわけだ。そういうことか。いくら寿司ネタの王だからと言って、安さには勝てまい。中トロか。あいつとはケンカで負けたことがないが、今日ばかりは俺の負けだ。完敗だ。今ごろアイツは優越感でいっぱいだろう。
 だが。
 俺は、俺に負けるわけにはいかない。
 他のやつがどうであれ、俺の死に場所はここだ。
 必ず、任務を全うしてみせる。
 生ゴミなんかにされてなるものか。
 俺は最後の精力を振り絞って、孤軍奮闘、必死に己をアピールする。
(この光り輝く赤を見ろ!)
(つやつやの新鮮なネタだ!)
(まぐろだ、まぐろなのだ!)
(想像しろ! ふっくらしたシャリと、弾けるばかりのあのまぐろの旨みを!)
(想像しろ! 程よい醤油の味と、香り高いわさびの絶妙なハーモニーを!)
(想像しろ! この俺(まぐろ)を!)
 その時。
 見慣れない、小さな手が俺に向かって伸びてきた。子供だった。まだ10歳にも満たないだろう、その男の子は、他の皿など見向きもしないで、一心不乱に俺を掴もうとしている。彼の背丈で皿を取るには、この動く歩道は高すぎる。
──頑張れ。
 気付くと俺は、彼を応援していた。
──そうだ、腕を伸ばせ。
 もたもたしていると、すぐ通り過ぎてしまう。 歩道は、無情にも動き続けるのだ。
 あとほんの少しで彼の届く範囲から去ろうという時。俺は、ふっと、宙に浮いた。
 掴んだのだ。
 よくやった。これで俺は任務を全うして生涯に幕を閉じられる。少年、感謝する……。
 安堵しきっていたその瞬間。
 隣から、母親と思しき人物の、鋭い声が耳に入った。
「あらしんちゃん、それサビ抜きじゃないわよ、やめときなさい」
(なにィーーーーーッッッィ!!)
 まさに空前絶後の悲劇。子供の手から皿を奪い取った母親は、そのまま何事もなかったかのように再び動く歩道の上へと俺を乗せると、
「こっちにしときなさい」
 と、後から流れてきたサビ抜きの中トロを、子供の前へと差し出した。
 もはやこれまで。
 二周目が終わるまで、あとほんのわずか。
 プライドも鮮度も、なにもかもずたずたに傷つけられた俺は、奮闘虚しく、再びあの男がいる厨房へと吸い込まれていった。
 果たして、俺が三周目に突入したか否かは、特筆すべきことではないだろう。

  ──任務完了、ならず。



永訣の白帝城   (2005/12/14)
(見えぬ。死とはまず、光を失うことだったのか)
(眠るようでも、ある)
(だが、願わくば今少し――)


 中国三国時代、蜀。章武三年四月。
 おぼろげな意識の中、劉備玄徳はそこに桃の花を見た。
 見事なまでの満開の花。己が地を踏むその場所は、辺り一面が桃色で覆われ、天を仰ぐと幾千もの花弁の隙間から日光が煌々と差し込んでいた。
(呼んでいる、声)
 見ると、空を舞う花弁の向こうに、二つの男の影があった。出会った時のまま、全く衰えを見せていない二人の姿を訝ることもなく、玄徳は夢中でその名を呼んだ。
(雲長、益徳。酒盛りをしよう)
 若い二人は反応を示さない。ただ、こちらを向いて笑みを浮べる。もう一度、呼びかけようとした』時、関羽雲長がその長い髭を春の微風に揺らしながら、ゆっくりと手を差し伸べた。こっちへ来い、と。穏やかに。だが強く。張飛益徳が横で頷いている。そうだ、早く来い、長兄。
(そうか。ここはあの桃園の誓いをした場所。初めて二人に出会い、壮大な野望を抱いて心行くまで語り合ったあの日。生まれた日は違えども、死す時は同じ日を、と)
 暖かい風が導くように前を横切り、こころなしか桃色に染まったその頬を優しく撫でていく。劉備は促されるまま、一歩前に進み出た。そして、また一歩。少しずつ、少しずつ。確実にその距離は短くなっていく。姿が見えてきた。影ではない、屈強な体。生涯、命をかけて共に戦場を駆け抜けた二人の姿が。
 関羽が手を伸ばす。劉備が応える。手が触れる。
 刹那。

「陛下」
 劉備はまさに閉じようとしていたその重い瞼を、再び億劫そうに持ち上げた。永久のまどろみの際から覚醒した蜀の皇帝は、少しの間思考が働かず、呼吸を整えながらゆっくりと夢を見ていたことを認識した。
「――丞相。もう少しで義弟(おとうと)たちのところへ逝けたものを」
 わずか自嘲気味に劉備は口元に頼りない笑みを浮かべ、自分を呼ぶその声の主にゆっくりと視線を向けた。
「お気を確かに、陛下」
 蜀の丞相。諸葛亮孔明。
 約十六年前、主君劉備玄徳自ら孔明の草廬まで赴き、三顧の礼をもって自軍に迎え入れた稀代の天才軍師。その計り知れぬ才能が故、“臥龍”―臥せる龍―の異名をも持つ彼が今、若き日に誓ったあの忠誠を、目の前の男に賭けた己の野望を、胸の内で何度も噛み締めている。いつの日だったか、劉備から賜った白羽扇が今日はやけに重い。
「孔明」
 劉備はかつてそう呼んでいたように、丞相の字を口にした。自然と、その名前が出た。孔明は久しぶりにその名を聞いた。自国、蜀の中でそう呼べることができた人物はただ一人だった。官職が上がるにつれ、許されなくなった呼び名だった。だが、今は。
 懐かしい響きに誘われたように、孔明も無意識のうちに、「殿」と口にしていた。
 胸の奥から焼いた鉄のようなものが込み上げてくる。それは姿を変え、双眸から血の涙として溢れてくる。頬に一筋つたうその熱いものを拭おうともせず、孔明はただ拝哭していた。
「孔明、私はもうすぐ死ぬ」
「何を弱気な」
「聞け。私は漢の再興を願って挙兵し、皆と共に雌雄を決してきた。だがその漢も既に滅び、私の野望も朽ちた。愚かだったのかもしれない。人の上に立つような器ではなかったのではないか。そう思う」
「そんな、そんなことはありませぬ、殿。この孔明、決して」
 孔明の言葉を遮るように、劉備が大きく咳き込んだ。医師が駆け寄る。
 それでも、劉備は調息をしながら語った。聞きとることが困難なほど細い声で。白帝城が滂沱の嵐に包まれる。皆がおそらく、これから間もなく起こりうるであろう悲劇に、直面せねばならぬ現実に、胸が張り裂けんばかりであった。皇帝を包む純白の薄い布が涙に反射し、眩しい。
「孔明。言おう。私が今改めて、幸福だったと思えることは、」
――そなたを得たことだ。
 孔明が息を飲む。その仲の良さから水魚の交わりと囁かれた二人である。
「殿。私も殿に忠誠を誓ったからこそ、今、ここに在ることが出来るのです」
 涙で視界がぼやける。孔明は皇帝の青白い顔を、その双眸を真っ直ぐに見つめ、懸命にその名を呼んだ。
「嬉しいことを、言ってくれる」
 すう、と体の中で何かが静かに消滅していく。しかし音をたてて壊れていくようでもある。かつては頑健なその肉体で戦場を駆け抜けた一代の英雄が、多数の刀痕から血を滲ませ、今まさに亡骸になろうとしていた。

 一足先にこの世から去って行った英雄たちの声がする。
(真の英傑は君と余だけだ)
曹操孟徳。
(最後は、力のある者が残る)
呂布奉先。
(風が、要る。東南の風が)
周瑜公瑾。

 みな、恐ろしい男たちであった。
 一度は手を結びながら生きた時代があった。そこには心が共鳴しあうものはなかったが、天下に背き、浅薄な通年に背き、いつか必ずや、この戦乱の世をおのが思うままにしてみせるという野望を共に抱いていた。崖っぷちから這い上がってきた。そんな自信と誇りが真紅の気となり、全身を駆け巡って世に乱出していた。
 時には濁流に呑まれながら。
 蟻地獄の中をもがき苦しみながら。

――もうすぐ、私もそこへ逝く。

灯火の命のひとかけらを、言葉に変える。

――蜀を、頼む。


それが、最期のことば、だった。

孔明はこの時、生涯ただ一度、慟哭した。


23:00   (2005/10/14)
 一週間の仕事が終わった。
 たまには一緒に晩飯でも、と誘う同僚に、満面の笑みで「お疲れ様でした」と返事をし、車に乗り込む。ハンドルを握って向かう先は、仕事場から少し離れた大きめの本屋。隣接している喫茶店は、既に常連。金曜日、週末の疲れた頭と体にご褒美を。
 といっても、気に入った雑誌をまとめ買いするのではない。新刊を片っ端から買っていくわけでもない。まして、ずっと欲しいと思っていた「ガラスの仮面」全巻を買うわけでもない。ただ「本屋に行く」これだけ。それ自体が、私にとっての「ご褒美」なのだ。特にあてもなく、ふらりと店内を眺める。気になった本を手にとる。新刊をチェックする。たまにレジに持っていくのは、2時間あれば軽く読めそうな薄い文庫本。ごくまれに、表紙が気に入ったから、という理由だけで買う時もある。すごく大切で、好きな時間。文庫本一冊と、アメリカンコーヒー1杯分の値段しかかからない、ささやかなご褒美。
 でも、今日は違う。今日これから本屋に行くのは、いつもの「ご褒美」のためではない。

 入り口になるべく近い場所に車を停め、店内に入る。ぴかーっと新刊が並ぶ文庫本コーナーを横目で見ながらそそくさと通り過ぎ、片隅に設置してある文房具売り場へと来た。本屋が大きいと、文房具売り場まで大きい。ずらっと陳列する、ペンノート消しゴムファイルのりハサミ定規メモ帳クリップふせんコピー用紙……。実は、本屋と同じくらい文房具売り場が好きな私だ。こまごましている新品の文房具たちを見ると、たまらなく高揚してくる。おもちゃ売り場に来た子どものように、わくわくする。大好きな紙類はもちろん、普段必要のない真っ赤なマグネットや、「よくできました」シールまで欲しくなってしまう。今日はそれらを全て素通りし、真っ直ぐに目的の品の前まで来た。
 それは、大きい売り場なだけあって、さすがに品揃えが豊富だった。色とりどり。形も違う。私は迷った。一つ手にとっては考え、また棚に戻す、という作業を、おそらく30分は繰り返していた。丹念にひとつ選び、レジへと持っていく。迷いに迷った挙句、結局はシンプルで、どこでも売ってそうな変哲のないものになってしまった。それでも、数ある中で厳選した、あの子の好きそうな優しい色合いのレターセット。

 その日の夜、23:00を回って、やっと私は机に向かった。書き物をする時は、静寂がいい。音楽もいらない。丁寧に淹れたコーヒーと、万年筆さえあればいい。
 便箋の1行目に、10年以上付き合っている親友の名前を書いた。もちろん、電話番号もメールアドレスも知っている。ついこの間も、あくびをかみ殺しながら夜遅くまで長電話をした。この一ヶ月でやりとりしたメールなんか、本当に他愛ない内容だ。
【この前言ってた車、今日初めて見た。可愛いね(≧▽≦)】
【あんたがめちゃくちゃ好きそうなタイプ発見♪♪♪】
【髪切った。写メ送るから感想プリィーズ!】
 20代半ばにもなって、こんな短い画面の文字が、真剣で、楽しい。

 でも。
 でも、今日は手紙を書こう。落ち着いて、ゆっくりと。便箋に万年筆のインクが滲んでいくのが心地良い。伝えたいことは山ほどある。考える前にペンが動く。便箋に向かって、しゃべっている。実は今朝から決めていた。今日の、この時間だけは、彼女のために使おう、と。他のことは何も考えない。わずかに残っている仕事モードのスイッチを、無理やり切って。
 彼女に手紙なんて、何年ぶりだろう。中学生の時以来か。思えば、長い付き合いだ。一緒にテニスボールを追い掛け回し、クラスの男子に一喜一憂し、他愛ないことで泣いたり笑ったり。あの頃は、ただ、楽しめればよかった。10年後の今を、どうして想像しただろう。
 来年は異動かもどうしよう。まじあの上司むかつくんだけど。またあのコ別れたらしいよ。最近お母さんの体調が良くなくて……。たっぷり便箋4枚。読み返せばわざわざ手紙に書くようなことか?と言いたくなる内容かもしれない。もしかしたら、この間長電話した時に話した内容と同じのもあるかもしれない。けれど。ペンが書きたいって言っている。
 こんなくだらないこと書いてゴメンね読まなくてもいいよ嘘やっぱり読んでそれで時間がある時でいいから返事ちょーだいその時はこれ以上にくだらないこと書いていいからきちんと読むからだから。
 そんな気持ちが伝わるといい。きっと、伝わる、彼女なら。
 少しペンを置いて考えて、コーヒーを一口。静かにカップを置き、意を決して最後の1行を書き加えた。万年筆だ。少しでもペンを迷ったらにじみができる。迷いを、見せないように。
 さらりとペンを走らせる。
<本当に、結婚おめでとう。先を越されちゃったな。どうか、幸せに。>

 宛名を書いて、切手を貼る。きれいに三つに折って、便箋とおそろいの封筒に入れる。丁寧に糊付けし、封をする。欲しい欲望に耐え切れず、つい先週の「ご褒美」の時に、文庫本と一緒に買ってしまった金ピカの「おめでとう!」シールを貼る。小学生のノートの端っこによく貼ってある、アレだ。このくらいの冗談は、許せる仲。きっと、「らしいな」と笑ってくれる。でも、残ったシールの使い道は、今のところない。
 あとはポストに投函するだけの封書を、もう一度確認する。宛名よし、差出人よし、切手よし。
 机に手紙をそっと置く。おもむろに視線を横の出窓に移す。飾り気のないそこに、からっぽの写真立て。捨てられないタバコの空き箱。借りたまま返せなかった、グレーのハンカチ。
 最後の一口だった冷めたコーヒーが不味い。自然と、表情がゆがむ。ドロリとした黒い感情が胸の奥からじわりと湧き上がってくる。カップを握った手に、知らず、力が入る。
 結局、自分の幸せをつかむためにあの男は彼女を選んだ。ただ、それだけのこと。
 私ではなく、彼女といる方が幸せになれる。そう思ったから、結婚を決めた。それもまた、当然のこと。 
 そう分かっていても。
 彼女の幸せを心から願っているはずの私が、今、どうしても笑顔になれない。
 待ち望んでいた親友の結婚だ。祝ってやれないのか、狭量だな。
 己を謗(そし)る本音が、心の底でよどんでいる。
 結婚式は一ヵ月後。
 直接会うその時は、言わなくては。うるさい本音に蹴りを入れ。
 彼女に、怪訝に思われないように。素直に。自然に。笑顔で。心から。
 何も、知らない彼女に。
「結婚おめでとう。本当に良かったね」と。

 その瞬間。
 私と彼との間にかろうじて繋がっていた細い細い糸は。
 ぷつんと、切れる。

 明日は休みだけれど、少し早起きをして、ポストまで歩こう。
 この手紙が、早く、彼女のもとへ届くといい。



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